脱水症状になるまで批評

からっからに枯れ果てるまでアウトプットします。

自分の中に毒を持て

 

 この本を読むと熱い気持ちが心の奥底からわいてくる。
 なにかに挑戦したいけど、色々な理由で足踏みしている、という人には真っ先におすすめしたい。

 著者は芸術家の岡本太郎
 岡本太郎といえば「芸術は爆発だ」の名言で知られている。馬鹿と天才は紙一重、がぴったりくるアバンギャルドな芸術家、というのが世間一般のイメージだと思う。


 で、本書を読んでみると、まさにイメージ通りの人柄が文章ににじみ出ていた。

いうなれば「爆発した文体」で、読んでいるとどんどん乗せられて、どんどん熱くなってくる。よくわかんないけど「爆発してやれ!」となる。

なにがそうさせるのか?
 注意ぶかく読んでいくと、著者のエネルギーの源は「逆説」である、ということが理解できる。
 ただ、種明かしをする前に、まずは本書の内容について見ていこう。


 著者の主張は、いたってシンプルだ。簡単に言えば「退屈な生き方をするな!」というもの。
 では、退屈な生き方とはなにかというと、「幸福を求める」ことだという。

 著者自身、「ぼくは”幸福反対論者”だ」と書いている。

自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。(中略)深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

 と、高尚なご意見ではあるが、じゃあどうするのか?というと、著者の解答はこうだ。

危険なこと、辛いこと、つまり死と対面し対決するとき、人間は燃えあがる。それは生きがいであり、そのときわきおこるのがしあわせではなくて”歓喜”なんだ。

 この”歓喜”は、自分の内面にひそむマイナス面とむきあったときにのみ、感じることができるらしい。
 本書では、全編を通して「内面とむきあう」ことが熱く語られていく。


 たとえば、僕がもっとも印象に残った考えかたのひとつに、「自分のマイナス面を認める」というものがある。


 誰にだってコンプレックスはある。だけど、ふつうはそれを容認できず、隠そうとしたり忘れようとする。人より劣っていると思うことは辛いし、なにより不安だから。

 そういう自分の駄目なところ、直視したくない部分を、素直に認めてしまえと著者はいう。それどころか、そういう自分のマイナス面に賭けて、とことん駄目になってやろうと決意したとき、生きる力が盛り上がってくる。

 本書のタイトルにある「毒」とは、つまり僕ら自身に向かって逆流してくる毒であり、それが全身にまわるときの痛みこそが「生きているアカシ」なんだ。


 そんなの合理的ではない、自分の良いところを伸ばしたほうが効率的だし、辛い思いをしなくてすむなら、それにこしたことはないじゃないかーーと僕なんかはどうしても考えてしまうけど、著者の哲学にしたがうと、むしろ合理的な考えを「捨てる」ことが重要だ。


 ここで著者がひきあいに出してくるのは、なんと「呪術」の非合理性である。


 呪術は、よく知られているものだと、藁人形に釘をうちこむだとか、死者がイタコに憑依するだとか、雨乞いだとか、そういう迷信的で、オカルトっぽい風習だ。そんなものに科学的な根拠はない、ということくらい子供だって知っている。この科学的ではない視点が、現代人には必要なのだという。


 なぜなら、科学が扱えるのは「合理的」な分野だけだから。
 一方、人間にはそれぞれに感情があり、科学や数字で割り切ることなんてできっこない。

 それなのに、現代は「経済的・政治的」な枠組みのなかでコミュニケーションを機能させようとする。合理的だから、というだけの理由で、方向性をきめようとする。さらに悪いことには、他人に対してだけでなく、自分自身に対してさえ「効率」や「利益」を求めてしまう。感情を顧みずに…。

これでは、生きることに絶望してもおかしくはない、というわけだ。


 ちなみに、科学を取り入れる前まで、人間はどんなものでも呪術で解決しようとした。

 たとえば、農耕文化においては、一年間の方針を今でいう「占い」によって決めていたし、誰かを許せないと思っても「神」が許せといえば無条件で許した。そういう超自然的なもの、人知でははかれない存在を認めていたからこそ、個人では手に負えないような不安や怒りを抑えることができていた。


 とはいえ、それを迷信だと知ってしまった僕たちには、今さら呪術にたよることなんてできっこない。著者だって、そんなこと百も承知だ。それでも、昔から今なお形を変えずに残っている呪術があるという。

 それが芸術だ。


 たしかに、好きな音楽を聴くときに、僕は目的も合理性も必要としていない。ただ聴きたいから聴いて、それがやけに胸にしみくる。ときには理由もないのに泣いてしまう。音楽が、理屈抜きで感情にうったえてくるからだ。美術館にいくときも、小説を読むときも、芸術そのものを目的にして時間を費やす。その時間は至福になる。

これは別に芸術に限ったことではなく、たとえば映画や漫画みたいな娯楽であっても、やはり同じように感情に迫ってくるものがある。

 こういった、芸術(娯楽)のもつ非合理性を、著者は人生のあらゆる範囲に拡大して実行すべきだという。


 岡本太郎の作品は、僕はいくつかの抽象画と太陽の塔くらいしかしらないし、別に好きでもなんでもないけれど、それでも創作に全力をそそぐ姿はカッコイイ、魅力的だなと思う。それは彼が、自分自身を、最高の芸術作品として爆発させているからかもしれない。


 本書のなかには、こんな興味深いエピソードがある。
 著者が個展をひらいたときの話だ。

 大勢の観客のなかに、ひとつの絵を、じっと見つめている女性がいた。彼女は身動きもせず、二時間ほど同じ絵を見ていたらしいのだが、急に一言だけ「いやな感じ!」と言って立ちさった。
それを守衛から聞いた著者は、落ち込むどころか、むしろ喜んだ。

こちらは自分の生きているアカシをつき出している。人間の、本当に燃えている生命が、物として、対象になって目の前にあらわれてくれば、それは決して単にほほ笑ましいものではない。心地よく、いい感じであるはずはない。むしろ、いやな感じ。いやったらしく、ぐんと迫ってくるものなのだ。そうでなくてはならないとぼくは思っている。

 この感想こそが、彼の「表現」をふくめたすべての生きかたを象徴している。自分のマイナス面を認め、それをさらけだすこと。それが"歓喜"を生み出す。
 まさに「逆説」だ。

 さて、ここからすこし、種明かしをしてみよう。
 なぜ、本書がここまで読者を熱くさせるのか?

 興ざめするような話なので、本書に興味をもった人は、読むのをやめたほうがいいかもしれない。


 実は、ただの破天荒オヤジのように見えて、岡本太郎はレトリックの達人、そのなかでも特に「逆説」の達人だといえる。本書のなかでも、巧妙に逆説を展開させていくことで、読書の心を煽りたてている。


 うえに書いた「ぼくは”幸福反対論者”だ」という宣言がいい例だ。10人中10人が「いいもの」だと思っている幸福を、あべこべに否定することで、読者に強烈なインパクトを与えている。

他にも、スキーをして転んだ、というエピソードを語ったあと「自分が転んだというよりも、ぼくの目の前で地球がひっくりかえった」などと主格を転換させたり、自分はちっぽけな蟻のような存在だ、と弱気なことを書いたあと「でもこの小さな一匹の蟻が胸から血を流して倒れるとき、自分と一緒に世界が滅び去る」とスケールの幅を一気にひろげたりーーこういう逆説が、本書のいたるところに散りばめられている。


 著者は「ものごとをひっくり返す」ことで、読者に違和感をあたえ、心象を揺らがせる。心理学で「認知的不協和」と呼ばれている状態に、読者をたくみに誘導している。自己啓発や宗教でよく利用されるやり口だ。このように、常識や既成観念が破壊されて「認知的不協和」におちいると、ひとは新しい思想をうけいれやすくなる。


 つまり、岡本太郎の言葉そのものが、彼の提唱する「呪術」そのものなのだ。それが理屈や合理性に一撃をくらわせて、僕らを得たいのしれない熱意のなかに放りこんでしまう。

 そういう意味で、本書はエッセイというより、むしろ文学に近いと思う。谷川俊太郎の詩が呼吸のありかたを変えてしまったり、ボルヘスの小説がたったの三分を千夜の夢に変えてしまったりするような、それ自体が目的になりうる芸術だ。だからこそ、ロジックとか信憑性とはまったく違った説得力がある。


 著者の面白いところは、この呪術を自分自身にもかけているところで、だから魅力的だし面白い。


 こんな分析をしていたら、著者に「馬鹿やろう!」と叱りとばされそうだ。野暮なことだとは十分にわかっているけれど、僕はこういう方法でしか本書のすばらしさを伝えられない。それに、わかっていても、読むたびに心が燃えあがるくらい、本書にかけられた呪術は強烈だ。


 つまらない自己啓発にはまるくらいなら、この本を繰り返し読んだほうがずっと効果的だし、ためになる。
 嘘だと思うなら読んでみなさい。