脱水症状になるまで批評

からっからに枯れ果てるまでアウトプットします。

既読版・読んでいない本について堂々と語る方法


 

 ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んだ。いくつかの理由で、かなりスリルのある読書体験だった。
 

 まず何といっても、本書の存在そのものがスリリングだ。
 本書は、タイトルの通り「読んでいない本について語る」というタブーに挑戦していて、これはおそらく多くの(自称)読書家たちの神経を逆なでしたことだろう。

 読書というものは知的財産であり、当たり前だけど、目には見えないという特徴がある。本書の出版によって「こいつ、もしかしたら読んでないな」という犯人探しがはじまれば、その誤解(もしくは図星)を払拭するのはかなり困難だ。

 僕をふくめ、世界中の読書家たちは、読書体験を疑われるという恐怖に、つねに脅かされながら本について語ることになった。なにせ世界中でベストセラーになった本書を、相手が読んでいるかどうかも分かりはしないのだから。そういう意味で、本書によって「読書」そのものの価値が大きく変わってしまった、といっても過言ではない。


 しかも、パリのれっきとした大学教授である著者が、冒頭からいきなり「読んでいない本について授業でコメントすることは多々ある」と告白するのだから驚きだ。暗黙の了解として「学者の世界」ではふつうに行われているらしい。暗黙の了解を、公の場で書いてしまっても大丈夫なのだろうか? と、ここでもヒヤヒヤした。


 ちなみに僕は本書を読む前に、その書評をブログに書いた(興味のある人はこちらからどうぞ)。ちょっとした遊び心のつもりだったのだけれど、これまたスリル満点で、読んでいるあいだ中、ずっと気が気でなかった。

 その読んでいない方の記事で、僕は本書を「速読本(速読をすすめる本)」の究極版であると位置づけた。本を語るのは「他人から一目置かれるため」であって、それをできるだけ効率化するためのノウハウが本書に書かれている、という感じの紹介だ。それから、読まずに語るのは結局のところ付け焼刃にすぎないから、やっぱり本は深くじっくり読むべき、というような反論でまとめた。

 そのため、内容がまったく見当違いだったら恥ずかしいな、という不安にビクビクしながら読んだ。怪我の功名というべきか、おかげで隅々にまで慎重に目を通すことができて、かなり深い読書になったと思う。


 で、僕の予想が当たっていたかというと、もうぜんぜん大外れで、穴があったら入りたい気分。
 ただ、いくつか、当たっていた部分がないわけでもない。

 まず、本書が「速読本である」というヨミは(著者がそう書いているわけではないけれど)まぁまぁ的中していた。

「本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である」

と、著者は断言している。

 生きているあいだに世にある全ての本を読むことなんて、不可能だ。
 不可能だとわかってはいるけれど、それでもできるだけ多くの知的財産を所有したい。そのためには「全体の見晴らし」をつかむことが重要で、一冊の本に時間をかけるべきではない、というわけだ。


「全体の見晴らし」というのは本書でたびたび言及されるキーワードなので、もし本書でテストをすることになったら間違いなく出るだろう。念のために復習しておくと、知識を断片ではなく、おおまかな流れのなかに位置づけする、というような意味合いだ。著書によれば、「全体の見晴らし」をたてることが「教養」の本質なのだという。

 この主張自体は、多くの「速読本」で述べられていることと比べても大差はない。
「まえがき」とか「第1章」にふつうに書かれている内容だ。

<なぜ、速読が重要なのか?>
<速読にどんな利点があるのか?>

ということを読者に示し、モチベーションを高めてから、ではどうすればいいのか?という具体的な方法に移行する。これが「速読本」のセオリーだ。

 
 ところが、本書はどれだけ読んでも、次章にあたる具体的な方法が出てこない。「なんとなくこんな感じで」というようなことは書いてあるものの、具体的とはとても言いがたい内容だった。
 
 全編をとおして書かれているのは、速読を動機づけるための言葉ばかりだ。それを延々と繰り返された読者は、パブロフの犬のようにヨダレをだらだら垂らしながら速読に条件反射することになるだろう。まさに精神的な「おあずけ」状態。

 ここらへんは、精神分析家でもある著者の見事な手腕だといえる。そして、実はこの(具体的な方法が書かれていない)点にこそ、本書が他の「速読本」とは一線を画し、高い評価を受けている理由がある。


 著者は決してーー本を読まずに語るための「具体的な方法」を思いつかなかったので適当にごまかそうとしたーーわけではない。そうではなくて「本を読まずに、どのように語るか」というところにこそ本質的な価値がある、と主張している。

 乱暴に言えば、どう語るかは「自分で考えろ」というのが本書の結論だ。

 なぜなら、書評をふくむあらゆる批評は、批評家の「魂の叫び」であり、それこそが最も創造的な活動なのだという。これをオスカー・ワイルド流に言えば、

「批評家にとって芸術作品は、彼自身の新しい作品の示唆にすぎず、それは必ずしもそれが批評するものと明白な類似を有するには及ばない」

ということになる。

 つまり、本を口実にして「自分自身について」語るのが目的だから、本についての知識はめちゃくちゃでも嘘でも一向に構わない、というわけだ。


 著者はこの結論を正当化するために、古今東西のあらゆる物語を引き合いにだして議論をすすめる。フランス人なのに夏目漱石の『吾輩は猫である』にまで触れていたのは驚きだった。しかも、引用する本のほとんどは「ちゃんと読んでいない」のだそうで、彼の教養のすさまじさには、僕も脱帽してしまった。

 面白いのは、この議論にも綱渡りのようなスリルがある、という点だ。

 信じられないことに、著者は「主張」を正当化させるための材料として、自分自身の経験と物語の引用しか、準備をしていない。このあまりに主観的なふたつの材料だけで、結論まで強引に議論をすすめていく。

 これは例えるなら、野球をするのに「ユニフォーム」と「野球ボール」しか持っていかないようなものだ。ボールを飛ばすバットも捕球するグラブもない状態で、どうやって点やアウトをとろうというのか?

 事実も根拠もないのだから、ロジックなんてふつうは成り立つはずがない。これはあまりにも無謀すぎる。
 ……かと思いきや、著者はまんまとそれをやってのける。
 
 なにって、とにかく物語を「語る」のが上手なのだ。抜群に面白いうえに、池上彰に匹敵するくらいわかりやすい。引き合いにだす物語にしても、通読したのに気がつかないような、鋭い視点のオンパレードだ。それで夢中になってページをめくり、あれよあれよと読み進めていくうちに、いつのまにか最後の結論にたどりついてしまった。


 たとえば著者は、バルザックの『幻滅』を引き合いに出しながらーーリュシアンがジャーナリストたちに手ほどきをうけるーーというエピソードを詳細に語っていく。その合間合間に、自分自身の解釈を当てはめる。そうすると、実際に読んだときとは一味も二味もちがう『幻滅』が目の前に広がっていく。

 こんな読み方があるのか、とまるで魔法にかけられているような気分だった。本書の文章で読んでいると当たり前のことにも感じるのだけれど、著者の視点を知るまでは一生、そんな読み方はしなかっただろう。

 まさに「創造」と呼ぶにふさわしい批評だ。

 僕が『幻滅』を読んだときの印象は「祭りあげられて調子にのった若者が哀れにも転落していく」というものだった。そのストーリーの原型を通して、ジャーナリズムの腐敗を描いているんだな、ということが読み取れた。

 もし『幻滅』から、あえて教訓を得ようとするならば、ディズニー映画のピノキオにかなり近いものになる。「誠実であれ」というかなり普遍的な教訓だ。そしておそらく、ふつうに読んだら、十人中九人は同じような感想を持つだろう。


 しかし、本書ではあべこべに、「ジャーナリズムの腐敗」を正当化してしまう。
 物語の最重要部であるリュシアンの転落については、軽く触れる程度ですましておいて、それよりも「本を読むのは愚か者のすることだ」と書かれている部分を強調する。詐術みたいに「読まないで語る」ことが説得されていく。


 教訓とするものが「ふつう」の視点とはまるっきり正反対。

 実は、僕が本書のなかで最も、スリルを感じたのはこの場面だった。もちろん著者は、リュシアンが転落することをちゃんと知っている。読者がそれを見抜くことも、すべて計算にいれていて、だからこそ、あえて無茶な議論を展開した。 

 著者が本当に書きたかったのは、「批評は創造である」という結論でも、そこに至るための議論なんかでもなく、本書に仕掛けられたアイロニーそのものだーーと気がついたとき、びっくりして鳥肌がたった。


 本書は「読み手」によって、どんな解釈をすることもできる。なぜなら著者が、意図的にそう書いているからで、本書は他のありとあらゆる書物のパロディだと言える。そりゃ、ベストセラーになるわけだ。


 著者はきっと平気な顔をして、本書とまったく同じ材料を使いながら『読んだ本について決して語らない方法』を書き上げることもできるだろう。なぜなら、本というのは「幻想」にすぎず、どんな風に「読む」ことも「書く」ことも、できてしまうのだから。 

 いや、これは本に限った話ではない。

 人間は「他人」のことだって、「自分」のことだって、いかようにも語れてしまう。
 なぜなら人格もまた、単なる「幻想」にすぎないのだから。


 そこまで考えて、急いで本書を再読してみると、最初に読んだときとは打って変わって、あらゆる言葉がやけに胸をえぐった。一生かけても読み切れない本の山に溺れるような、なんともいえない虚しさを感じた。


「こんなことなら読むんじゃなかった」
と思うけれど、もう遅い。

 実際に読んだ本は、語ろうが語るまいが、永遠に自分を縛りつけて離さない。もはや本を読むのも、それについて語るのも、それどころか生きていくのも嫌になりそうで、その本のタイトルが『読んでいない本について堂々と語る方法』とは、なんて皮肉だろう!


 とまぁ、深読みすればどこまでも深読みすることができる本なので、ふだんからネガティブな人に、本書はあまりおすすめできない。ましてや「本を読まずに語ってやろう」なんて下心で読むと、今後の読書人生(それはある意味で人生そのもの)を、おびやかされる危険があるので注意してもらいたい。


 ちなみに僕は「生きる意味なんて何でもいい」と思っている単細胞生物なので、本書はそこまで響かなかった。やっぱり読書は至福の時間であり、楽しむのが一番だ。とはいえ、とにかく面白い本だったので、まだ読んでいない人は(リスクがあることを忘れずに)、ぜひ手に取っていろんな読み方を試してみてほしい。