脱水症状になるまで批評

からっからに枯れ果てるまでアウトプットします。

知的複眼思考法

 偉大なアルゼンチン作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説に『エル・アレフ』という短編がある。

 作家である主人公は、幼馴染に「エル・アレフが家の地下室にある」と聞かされる。
 半信半疑で地下室まで降りていき、階段の19段目をみつめる。するとエル・アレフが見えた。

 エル・アレフには「地上のすべての場所、それもあらゆる角度から見た場所が混乱することなく存在している」という。

 その光景を描写するために、ボルヘスはまずその印象を語らせる。
心楽しい、あるいはぞっとするほど恐ろしい何百万という行為を眼にした。しかし、何よりも驚いたのは、すべてが重なり合うことも、透明になることもなくひとつの点に収まっていることであった


 小説でそれを書くことは、ボルヘスのような天才であっても簡単ではなかっただろう。「言語は継起的なものなので、私がここに書き写すものもそうならざるをえない」と、言語の限界についての前置きをしたあと、宇宙のイメージを精巧な版画のように重ね合わせていく。


 つぎつぎと入れ替わり立ちかわる描写は、文学史にのこる最高の場面なので、ぜひ小説を読んで味わってほしい。「記憶の人」と呼ばれるボルヘスは、無限の宇宙から「平凡さ」や「神秘性」や「美と醜」を取り出して並べ替えることで、ひとつの音楽を奏でるように彼の宇宙を差し出してくれる。しかもその宇宙には、読者である僕やあなたまで含まれているから驚きだ。


 さて、この物語は皮肉な結果によって、幕を閉じることになる。


 作家であった主人公は、結局のところ無限の宇宙からなにも得ることができなかった。一方、主人公がひそかに馬鹿にしていた幼馴染は、エル・アレフから得た着想をもとに詩を発表し、文壇からの賞賛をうけることになる。


 あえて、この小説を教訓として考えたとき、登場人物の二人はなにが違ったのだろうか?


 エル・アレフは「無限の宇宙」を見ることができる。そういう意味で、二人の知った情報はまったく同じものだった。
 しかし、それに対する態度はちがったことになる。
 主人公はやがて忘れていき、幼馴染は詩にすることで自分のものとして記録した。


 世の中は、たくさんの素晴らしいものであふれている。
 ただ、素晴らしいものに触れても、その反応は人それぞれに違う。

「この本を読んでから人生が変わった」と偉人がすすめる本を読んでも、感動はするのだけど、人生が変わるほどのことではなかったーーという経験は僕にも少なからずある。


 ボルヘスは、古今東西のありとあらゆる物語を知っていて、それを自らの作品に活かすことで世界中の文学ファンから賞賛をうけた。しかし、たとえボルヘスと同じくらいの博識であったとしても、それだけでボルヘスのような文章が書けるわけではない。むしろ、知識と知識のあいだに横たわる空白をどう埋めるか、というところに、作品の魅力があるわけだ。


 さて、話はすこし変わるけれども、日本の教育は「知識の丸暗記」を目的にしているので創造性が育たないーーという議論をよく聞く。つまり、どれだけたくさんの知識を持っているか、ということが知識をどう活かすかよりも重視されてきた。

 その結果、「勉強不足症候群」と呼ばれる若者が大量生産されてきたという。


『知的複眼思考法』という本には、その症状についてこんなふうに書いてある。

議論をしていてわからないことがあると、「よく勉強していないのでわかりません」と弁解する学生がいます。
「十分な知識がないのでわからない」「もっと本を読めば、わかるようになるだろう」。つまり、勉強量が足りないせいで、問題が解けないのだと思い込んでしまう(中略)、本当のところは、知識がまったくないというより、知識をうまく使いこなせないのですが



 この本の著者は、苅谷剛彦という東大の教授。そして、ここで書かれている「学生」とは東大生のことだという。
 受験エリートである彼らは、「世界のことすべてを説明してくれる大正解がある」という信仰を持っていて、それを見つけることが「学び」だと思いこんでいるらしい。


 本書には「自分の頭で考える力」をつける方法が書かれている。
 しかし、本題にはいるまえに思考停止状態の「高学歴な学生たち」について、上記のようなさまざまな例を紹介しながら、親のカタキのように批判する。文章自体は「です・ます調」なので気づきにくいけれど、その批判は徹底的で、しかも根拠までしっかりと示されるので反論の余地がない。

 優しい笑顔のまま学生たちをタコ殴りにしているようなものだ。


 正直、この辛辣な批評を読んで、学歴コンプレックスの僕は「そうだそうだ!」と知りもしないのに賛同していた。
 いま思うと恥ずかしいけれど、受験エリートの東大生たちが槍玉にあげられているのが愉快だった。


 でも、ふと思い返してみると、僕にだって「思考停止状態」に心当たりがある。「知識がないから」と新しいことをはじめるのに躊躇したり、興味はあるけど難しいそうな本になかなか手をつけられなかったり、心地よい言葉に踊らされて時間や金を浪費したこともある。


 そのことに気づいてからは改心して、「これは僕に対する批評だ」と思いながら正座して本書にのぞんだ

 そして、激しく落ちこんだ。


 僕には「無限の宇宙」を解釈して人を感動させることもできなければ、知識と知識の空白をうめて魅力的な文章を書くこともできない。見識者のふりをした情報過剰社会のゴミクズだ、情弱文学青年だ、と本気で思った。


 まぁ、そんなこんなで散々な思いをしたけれど、貴重な体験だった。


 ふつう、人は自分のことを過大評価する傾向にある。『エル・アレフ』の登場人物をみれば「自分は賞賛をうけた幼馴染側の人間だ」と考える人は多い。僕もそうだった。それでいて、現にこの宇宙に生きているのに、なにも残せてはいない。やろうと思えば、やれることはたくさんあるのに、そのことに気がつきもしない。


 それでいて、自分はひとかどの教養人だと本気で信じている(これも僕のことです)。


「自分を客観的に評価しろ」と言われても、簡単ではない。


 たとえば、歴史という学問では、遠い過去になってみてはじめて「時代の空気」を言語化できるようになる。
 くわしい知識がなくても、大日本帝国による戦争がどれだけ無謀だったか、ということを想像するのは難しくない。むしろ目に見えるかのように原因と結果が関わり合っていて、当時の人間がなぜそれに気がつかなかったか、不思議に思えるくらいだ。
 それでいて歴史評論家であっても、現代を語ることは困難で、未来がどんな姿をしているのか予測がつかないという。


 客観視するには「今の状況」から距離をおき、俯瞰しながら現状をたしかめる必要がある。
 地図を見るように、全体の構造を見わたすことができれば、どのように歩くべきか理解できるわけだ。


 地図を見るときに、何より重要なのは「現在地」が明確であることだ。
 はじめていくデパートなんかで案内図を見たとき、現在地が示されていなくて戸惑うことがある。目的地がわかっても、自分の居場所がわからなくては、たどるべきルートを探すことなんてできない。


 そういう目的地だけしか書かれていない本が、この世の中にはあふれている。

「論理的な思考が大事だ。それを身につけるためには、こういう方法がある」
「健康になりたければ、これをやめなさい」
「金持ちになるためには、こうしなさい」

 といった類のキーワードには、心を高揚させる効果があるけれど、万人がそれによって目的を果たせるわけではない。それどころか耳障りのいい言葉を並べることで、読者の現在地を偽って伝える本まである。本を読んで気持ち良くなることが目的なら構わないけれど、これではサービス業となにも変わらない。漫画や映画のほうがお手軽だ。


 本を読んで何かを得たいのなら、内容の信ぴょう性を査定したり、自分自身に応用していく工夫をしたり、という考察する力をつけなくてはならない。考察力のない読書はただのオナニーだ。


『知的複眼思考法』で紹介されるのは、この「考察する力」であり、まず読者の現在地を確認させるところからはじまる。どれだけなぐさめられても、反対に落ちこまされても、僕の現在地にはまったく変化がない。しかし、このままではダメだと思うことはできた。そもそも(当たり前だけど)著者のねらいは、優しい笑顔で読者をタコ殴りにすることではない。


 この本は「優れた案内図」の役割を果たしている。目的に向かう途中でときどき立ち止まっては、「現在地」と「たどるべきルート」を照らし合わせることができる。もちろん歩いていくのは自分の足でだけれど、だからこそ筋力がつく。


 そのルートはインプットからアウトプットまで、多肢にわたっている。すべて紹介することはできないので、印象的だったトレーニング方法をひとつだけ紹介してみよう。
 詰め将棋ならぬ「詰め読書」という読書方法だ。


 やり方は簡単。
 どんな文章でもいいので、最初の部分を読んだら、次を読む前に何が書かれているかを考える。

・著者がもっとも伝えたいことは何か?
・どんな議論を展開するか?
・その根拠として、どんな材料を提供するか?

 ということを自分なりに考えて事前にメモしておく。それから実際に文章を読んで、自分の考えとどう違ったのか、なぜ違ったのかを考える。つまり著者の考えかたや知識を、自分と比較するわけだ。


 僕はこれを書評でやってみた。読んだことのある本についてプロが書いた書評をえらび、一段落だけ読んでから、自分ならどう展開させるかを考える。答えあわせをしてみると、僕とはまったく違う議論を展開をさせていたり、同じような展開であっても利用する材料の種類や数がちがっていたりする。


 ふつうに読むのと比べて、著者の思考の「道筋」が手に取るように理解できるし、なにより自分に不足しているのが「知識」なのか「考えかた」なのか、という部分も明確に知ることができる。「勉強不足症候群」の改善にもってこいだ。


 ちなみに、著者の苅谷剛彦は「全国の大学生が選んだ日本のベストティーチャー」に選ばれている。最高の先生といえる人物に、僕はいまだに出会ったことがないけれど、そういう本に出会う機会はたびたびあった。最後に、最高の先生と呼べるほどの本を探すとき、参考になる言葉があるので引用しておこう。

平凡な教師はただしゃべる。
よい教師は説明する。
優れた教師は自らやってみせる。
偉大な教師は心に火をつける。

        ーーアーサーウィリアムワード