脱水症状になるまで批評

からっからに枯れ果てるまでアウトプットします。

時間は実在するか

考えれば考えるほどわからなくなるものがある。


たとえば「幸せってなに?」とか
「宇宙人っているのかな?」とか
「なんでここから毛が生えるんだろう?」とか。


というより、ほとんどの事柄は、どんな些細なことでも考えれば考えるほど、どんどんわからなくなってしまう。


「わからない」というのはストレスだ。
胃は痛くなるし、飲酒の量は増えるし、最終的にはハゲてしまうことだってある。


だから僕らはふだん、わからなくなる手前で、仕事や恋愛や宗教なんかを言い訳にして考えるのをやめてしまう。
そっちの方が体にいいし、生きるうえでも楽ちんだ。


そのうえで、「考えるのが趣味」というもの好きが考えた意見を、まるで自分の意見のように思いこんで、後輩や子供にドヤ顔で語ったりする。ときには他人が考えた意見をつかって、人と口論することだってある。


実際、自分が考えた意見だけで会話をする人なんて世の中には一人もいないし、ほとんどの人は(僕もふくめて)その意見が正しいかどうかすら考えないで、なんとなく、そうだと信じこんでいる。


たとえば「地球はまるい」という意見だって、本当かどうか、実物を見た人なんてほとんどいないわけで、教科書に載っていた言葉とか写真とかをそのまま信じこんでいるだけだ。


それでいて、「地球は四角いんだよ」と誰かが自分なりに考えて口にしようものなら、地球が四角い可能性については考えもしないで否定するだろう。


自分一人で考えた意見というのは、まぁ本当のところ、大体において間違っていることがほとんどだから、そうやって他の人から否定されると、もう考えるのが嫌になってしまう。とりあえずパーっと遊んで忘れてしまおう、とこれもまた考えなくなる悪循環のひとつといえる。


誰が悪い、ということではなく、とにかく世の中というのは、考えることが難しいみたいだ。


だからこそ、正しい(と相手を納得させられる)意見を考えることができる人は、もうそれだけで尊敬される仕組みになっている。偉人と呼ばれる人はみな、自分が考えた意見というものを持っていた。しかも、その意見を周りの人間にも認めさせることができた。


明王エジソンとか、アップル社のスティーブジョブスなんかだとわかりやすい。
彼らは自分の考えたことを、実際に形にした。


暗闇を明るく照らすことのできる電球とか、さまざまな機能を搭載した携帯電話とか、そういうものは目で見て、手で触れることができるので、無条件に人を感動させる。五感で認識できるものを人間は疑うことなんてできない。形にした時点で彼らの成功は決定的だった。


そういう意味ではピカソも、ベートーヴェンも、キューブリックも、芸術作品(もしくは娯楽)を形にすることで、自分の考えたことを人に認めさせた。
「この形、この音律が美しい」とか「芸術とはこういうものだ」というのが彼らの意見で、それをとにかく形にしてしまえれば話は簡単だ。あとは好きか嫌いか、優れているかいないか、というような評価を得られさえすればいい。もちろん、そこに正解はないけれど、芸術である限り、間違っていても構わない。


しかし、中には、形にできないものを考えた偉人もいる。


その多くは哲学者だ。
カントとかニーチェという名前を聞いても、彼らの意見を五感でイメージすることはできない。


哲学者は言語(そして数式)を使って、自らの意見を組み立てていく。絵や音楽を見て、なんかいいなぁ、と感じるのとはまったくちがう。作者の考えた道順を、受け手も同じようにたどらなくてはならない。だからめちゃくちゃ分かりにくい。
哲学が女の子たちのあいだに流行らないのもそのせいだ。


それでも哲学者が尊敬されているのは、考えることを放棄していない人たちが世の中には少数いるからで、実際に偉人の考えた道筋を自分でもたどったからこそ、得られる感動というものもあるらしい。


それを難しいから、という理由で無視するのは少しもったいなく思える。


そもそも「まったく考えない」という態度は、かなり危険でもある。まったく知らない人に勧められた料理を、疑いもせずに食べてしまうようなものだ。驚くことに、僕らは日常の中でふつうにそういうことをやっていて、もし料理に毒が入っていたら大惨事だ、とすら、考えたりはしない。


少し前にフェイクニュースが話題になったけど、似たようなことが政治や、金、医療の問題なんかでも、起こる可能性は十分にある。体と同じように、思考に毒が回ることが、死に直結しないという保証はない。


そろそろ「考える」ということを、少しずつでもはじめてた方がいいのでは?と思いたって、そのために僕はふだん読まない哲学書に手を出してみた。上にも書いたように、哲学は人がつくった道筋をたどりながら自分でも一緒に考えることができる。いわば思考のリハビリみたいなもの。そうやって考える筋力をつけておけば、いざというとき、毒入り料理を避けることもできるかもしれない。


ということで今回読んだのが、『時間は実在するか』という本。



マクタガードの『時間の非実在性』という論文をベースに、著者が考えた時間の実在性について示している。


読む前は「実在」ってそもそもなんだ?というレベルだったので調べてみると、経験や認識とはちがって「客観的な存在」のことらしい。

たとえば「空気の実在」というとき、それは僕らが呼吸をするときに鼻や口を通っていく感覚のことではない。
そうではなくて、空気そのもの、その実体のことで、僕らの五感とは完全に切り離しても「ある」と言えるなら、空気は実在する、ということができる。


つまり『時間は実在するか』?
という問いに答えるには、僕らが感じている時間ではなく、時間そのものが本当に存在しているのかどうか、ということを突きつめていくことになる。


そもそも、僕らが時間について語れることなんて、どれくらいあるだろう?


視覚としての時間は、時計の針が進んでいくことで認識することができるけれど、それすらも時間そのものの形を見ているわけではない。もちろん時間には匂いも味もないし、ましてや触ることなんて絶対にできない。


それでも経験的には、楽しいとき時間ははやく進み、つまらないとき時間は遅く進む(ように感じる)ということくらいなら言える。


しかし、実在とは「そう感じる」という経験から独立したもののことなので、どう感じていようが、そんなことは関係ない。「感じること=存在すること」なら、ドラッグによる幻覚だって存在することになってしまう。


「みんながそう感じているんだから、存在するに決まってる」という意見も無意味だ。誰もが信じていた事実が覆されてしまう、なんてことは過去に何度もあった。地球が宇宙の中心である、と信じられていた時代もあるくらいだし、みんながそう感じている、というのは意外とあてにならない。


では時間の存在は、どう証明するのか?というと、マクタガードは堂々と「証明することはできない」と開き直り、あべこべに「時間は実在しない」と言い切ってしまった。


なぜなら、時間を証明するためには、時間があることを前提にしなくてはならず、その前提の時間があることを証明するためには、時間があることを前提にしなければならない……という無限のループがつづいていってしまうからだという。


とても分かりにくいので、プラモデルで考えてみよう。(ガンプラでもミニ四駆でもかまわない)


ーーあなたは世界にひとつしかないプラモデルをつくることになった。
世界にひとつだから、そのプラモデルが完成したときどんな形をしているのか、あなたはまったく知らない。


それでも組立説明書があれば、図解を見ながらそこに振られている番号の通りに部品を組み合わせることで、最後にはプラモデルを完成させることができるだろう。


しかし、もしそのプラモデルが「順番」だったらどうだろうか?


あなたは世界にまだ存在しない「順番」というものをつくることになった。


もちろん、あなたは「順番」の完成図を知らない。しかも、組立説明書にはいろいろな図解がばらばらに並んでいるのだが、困ったことに番号がふられていない。なぜなら「順番」というものが存在していないので、あなたが「順番」を完成させないことには、組立説明書に番号をふることもできない。しかし、組立説明書に番号がふられていないと、あなたはいつまでたっても、「順番」を完成させることができないーー。


とまぁ、とても単純にして、無理やり喩えると大体こういう感じの矛盾がおこってしまうらしく、「時間の実在」はこの無限後退のせいで、いつまでも証明できないのだという。


だから時間は、僕らが「ある」と感じているだけで、実際には存在していないかもしれない。


目眩がするような結論だ。
にわかには信じられない。


もしそうだとしたら、過去から現在、そして未来へと流れる時間はすべて、僕らの思いこみということになる。ドラッグによる幻想のようなものということになる。


それは「この世界」そのものを、まったく別物に変えてしまう可能性をはらんでいる。


たとえば、「この世界」は、つい1秒前につくられたもので、僕らは「生きてきた」という記憶をうえつけられ、その情報と整合するような世界を用意されて、そんなこととはつゆとも知らずに、怒ったり、泣いたり、笑ったりしているかもしれない。まるで映画『マトリックス』のように。


恐ろしいのは「そんなことはない」と言い切ることが誰にもできないことだ。
なぜなら、時間は実在しないのだから……。


しかし、『時間は実在するか』の著者は、このマクタガードの論文を詳しく正確に(そして分かりづらく)解説したあと、「でも、時間は実在しない、とも証明できてないじゃん!」とツッコミをいれる。


実は、マクタガードの証明は「時間を否定するために時間を前提にしている」という、先ほどとまったく同じ矛盾を抱えこんでいるらしい。


つまり、時間は実在しない、ということを証明するには時間を前提としなくてはならず、その前提の時間すら実在しない、ということを証明するためにもまず時間を前提としなければならない……と無限に続いていく。


だから結局、マクタガードの証明は間違いだった、と著者は反論する。


「なんだ、そうだったのか」
ホッと胸をなでおろしたのもつかの間、そこから著者が考える「もうひとつの時間論」が語られていくのだが、これがマクタガードの論文に負けず劣らず難解で、正直、わけがわからない。

ただ、少なくとも「時間が実在する」と言い切ることはやっぱりできない、というより「実在しない」可能性の方が高いっぽい。


こうやって説明するだけでも頭がおかしくなりそうな本で、強制的に、考えるという地獄にひきづりこまれたまま、僕は今でも抜け出せずにいる。

本書ででてきた『A系列』とか『B系列』とか『無関係な過去』とかの言葉が、ぐるぐると頭を巡って、夜も眠れやしない。イメージとしては、トイレの水が止まらずに流れている渦中で、永遠と阿鼻叫喚を続けているウ○コ状態だ。


「思考のリハビリ」なんて言っていた自分の青二才ぶりが恥ずかしい。一冊を通して分かったのは「哲学こそが、まさに毒入り料理である」という絶望的な結末。
それでいて、この毒入り料理にはまってしまって、もうやみつきで次の料理を物色したりしている。


本の「あとがき」で、著者はマクタガードの『時間の非実在性』をはじめて読んだときのことを、こう回想している。

何か重要なことを論じているようでもあり、単なる屁理屈を言っているようでもあり、しかも、その議論に対するこちら側の態度を完全には決定できない歯がゆさのようなものが、いつも残っていた。


この『歯がゆさのようなもの』を忘れてしまうのか、それとも向き合いつづけるか、これが考え続けるという姿勢を決めるようだ。


著者は「わからない」ということに向き合いつづけた。


「わからない」ということは、もちろんストレスではあるけれど、それだけ得られることも多いようだ。
少なくとも、本と向き合って考えているあいだは楽しいし、時間を忘れて(?)夢中になれた。


「毒をもって毒を制す」という言葉もあるくらいだし、考えるための読書をこれからも続けていきたいと思う。