脱水症状になるまで批評

からっからに枯れ果てるまでアウトプットします。

自分の中に毒を持て

 

 この本を読むと熱い気持ちが心の奥底からわいてくる。
 なにかに挑戦したいけど、色々な理由で足踏みしている、という人には真っ先におすすめしたい。

 著者は芸術家の岡本太郎
 岡本太郎といえば「芸術は爆発だ」の名言で知られている。馬鹿と天才は紙一重、がぴったりくるアバンギャルドな芸術家、というのが世間一般のイメージだと思う。


 で、本書を読んでみると、まさにイメージ通りの人柄が文章ににじみ出ていた。

いうなれば「爆発した文体」で、読んでいるとどんどん乗せられて、どんどん熱くなってくる。よくわかんないけど「爆発してやれ!」となる。

なにがそうさせるのか?
 注意ぶかく読んでいくと、著者のエネルギーの源は「逆説」である、ということが理解できる。
 ただ、種明かしをする前に、まずは本書の内容について見ていこう。


 著者の主張は、いたってシンプルだ。簡単に言えば「退屈な生き方をするな!」というもの。
 では、退屈な生き方とはなにかというと、「幸福を求める」ことだという。

 著者自身、「ぼくは”幸福反対論者”だ」と書いている。

自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。(中略)深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

 と、高尚なご意見ではあるが、じゃあどうするのか?というと、著者の解答はこうだ。

危険なこと、辛いこと、つまり死と対面し対決するとき、人間は燃えあがる。それは生きがいであり、そのときわきおこるのがしあわせではなくて”歓喜”なんだ。

 この”歓喜”は、自分の内面にひそむマイナス面とむきあったときにのみ、感じることができるらしい。
 本書では、全編を通して「内面とむきあう」ことが熱く語られていく。


 たとえば、僕がもっとも印象に残った考えかたのひとつに、「自分のマイナス面を認める」というものがある。


 誰にだってコンプレックスはある。だけど、ふつうはそれを容認できず、隠そうとしたり忘れようとする。人より劣っていると思うことは辛いし、なにより不安だから。

 そういう自分の駄目なところ、直視したくない部分を、素直に認めてしまえと著者はいう。それどころか、そういう自分のマイナス面に賭けて、とことん駄目になってやろうと決意したとき、生きる力が盛り上がってくる。

 本書のタイトルにある「毒」とは、つまり僕ら自身に向かって逆流してくる毒であり、それが全身にまわるときの痛みこそが「生きているアカシ」なんだ。


 そんなの合理的ではない、自分の良いところを伸ばしたほうが効率的だし、辛い思いをしなくてすむなら、それにこしたことはないじゃないかーーと僕なんかはどうしても考えてしまうけど、著者の哲学にしたがうと、むしろ合理的な考えを「捨てる」ことが重要だ。


 ここで著者がひきあいに出してくるのは、なんと「呪術」の非合理性である。


 呪術は、よく知られているものだと、藁人形に釘をうちこむだとか、死者がイタコに憑依するだとか、雨乞いだとか、そういう迷信的で、オカルトっぽい風習だ。そんなものに科学的な根拠はない、ということくらい子供だって知っている。この科学的ではない視点が、現代人には必要なのだという。


 なぜなら、科学が扱えるのは「合理的」な分野だけだから。
 一方、人間にはそれぞれに感情があり、科学や数字で割り切ることなんてできっこない。

 それなのに、現代は「経済的・政治的」な枠組みのなかでコミュニケーションを機能させようとする。合理的だから、というだけの理由で、方向性をきめようとする。さらに悪いことには、他人に対してだけでなく、自分自身に対してさえ「効率」や「利益」を求めてしまう。感情を顧みずに…。

これでは、生きることに絶望してもおかしくはない、というわけだ。


 ちなみに、科学を取り入れる前まで、人間はどんなものでも呪術で解決しようとした。

 たとえば、農耕文化においては、一年間の方針を今でいう「占い」によって決めていたし、誰かを許せないと思っても「神」が許せといえば無条件で許した。そういう超自然的なもの、人知でははかれない存在を認めていたからこそ、個人では手に負えないような不安や怒りを抑えることができていた。


 とはいえ、それを迷信だと知ってしまった僕たちには、今さら呪術にたよることなんてできっこない。著者だって、そんなこと百も承知だ。それでも、昔から今なお形を変えずに残っている呪術があるという。

 それが芸術だ。


 たしかに、好きな音楽を聴くときに、僕は目的も合理性も必要としていない。ただ聴きたいから聴いて、それがやけに胸にしみくる。ときには理由もないのに泣いてしまう。音楽が、理屈抜きで感情にうったえてくるからだ。美術館にいくときも、小説を読むときも、芸術そのものを目的にして時間を費やす。その時間は至福になる。

これは別に芸術に限ったことではなく、たとえば映画や漫画みたいな娯楽であっても、やはり同じように感情に迫ってくるものがある。

 こういった、芸術(娯楽)のもつ非合理性を、著者は人生のあらゆる範囲に拡大して実行すべきだという。


 岡本太郎の作品は、僕はいくつかの抽象画と太陽の塔くらいしかしらないし、別に好きでもなんでもないけれど、それでも創作に全力をそそぐ姿はカッコイイ、魅力的だなと思う。それは彼が、自分自身を、最高の芸術作品として爆発させているからかもしれない。


 本書のなかには、こんな興味深いエピソードがある。
 著者が個展をひらいたときの話だ。

 大勢の観客のなかに、ひとつの絵を、じっと見つめている女性がいた。彼女は身動きもせず、二時間ほど同じ絵を見ていたらしいのだが、急に一言だけ「いやな感じ!」と言って立ちさった。
それを守衛から聞いた著者は、落ち込むどころか、むしろ喜んだ。

こちらは自分の生きているアカシをつき出している。人間の、本当に燃えている生命が、物として、対象になって目の前にあらわれてくれば、それは決して単にほほ笑ましいものではない。心地よく、いい感じであるはずはない。むしろ、いやな感じ。いやったらしく、ぐんと迫ってくるものなのだ。そうでなくてはならないとぼくは思っている。

 この感想こそが、彼の「表現」をふくめたすべての生きかたを象徴している。自分のマイナス面を認め、それをさらけだすこと。それが"歓喜"を生み出す。
 まさに「逆説」だ。

 さて、ここからすこし、種明かしをしてみよう。
 なぜ、本書がここまで読者を熱くさせるのか?

 興ざめするような話なので、本書に興味をもった人は、読むのをやめたほうがいいかもしれない。


 実は、ただの破天荒オヤジのように見えて、岡本太郎はレトリックの達人、そのなかでも特に「逆説」の達人だといえる。本書のなかでも、巧妙に逆説を展開させていくことで、読書の心を煽りたてている。


 うえに書いた「ぼくは”幸福反対論者”だ」という宣言がいい例だ。10人中10人が「いいもの」だと思っている幸福を、あべこべに否定することで、読者に強烈なインパクトを与えている。

他にも、スキーをして転んだ、というエピソードを語ったあと「自分が転んだというよりも、ぼくの目の前で地球がひっくりかえった」などと主格を転換させたり、自分はちっぽけな蟻のような存在だ、と弱気なことを書いたあと「でもこの小さな一匹の蟻が胸から血を流して倒れるとき、自分と一緒に世界が滅び去る」とスケールの幅を一気にひろげたりーーこういう逆説が、本書のいたるところに散りばめられている。


 著者は「ものごとをひっくり返す」ことで、読者に違和感をあたえ、心象を揺らがせる。心理学で「認知的不協和」と呼ばれている状態に、読者をたくみに誘導している。自己啓発や宗教でよく利用されるやり口だ。このように、常識や既成観念が破壊されて「認知的不協和」におちいると、ひとは新しい思想をうけいれやすくなる。


 つまり、岡本太郎の言葉そのものが、彼の提唱する「呪術」そのものなのだ。それが理屈や合理性に一撃をくらわせて、僕らを得たいのしれない熱意のなかに放りこんでしまう。

 そういう意味で、本書はエッセイというより、むしろ文学に近いと思う。谷川俊太郎の詩が呼吸のありかたを変えてしまったり、ボルヘスの小説がたったの三分を千夜の夢に変えてしまったりするような、それ自体が目的になりうる芸術だ。だからこそ、ロジックとか信憑性とはまったく違った説得力がある。


 著者の面白いところは、この呪術を自分自身にもかけているところで、だから魅力的だし面白い。


 こんな分析をしていたら、著者に「馬鹿やろう!」と叱りとばされそうだ。野暮なことだとは十分にわかっているけれど、僕はこういう方法でしか本書のすばらしさを伝えられない。それに、わかっていても、読むたびに心が燃えあがるくらい、本書にかけられた呪術は強烈だ。


 つまらない自己啓発にはまるくらいなら、この本を繰り返し読んだほうがずっと効果的だし、ためになる。
 嘘だと思うなら読んでみなさい。

既読版・読んでいない本について堂々と語る方法


 

 ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んだ。いくつかの理由で、かなりスリルのある読書体験だった。
 

 まず何といっても、本書の存在そのものがスリリングだ。
 本書は、タイトルの通り「読んでいない本について語る」というタブーに挑戦していて、これはおそらく多くの(自称)読書家たちの神経を逆なでしたことだろう。

 読書というものは知的財産であり、当たり前だけど、目には見えないという特徴がある。本書の出版によって「こいつ、もしかしたら読んでないな」という犯人探しがはじまれば、その誤解(もしくは図星)を払拭するのはかなり困難だ。

 僕をふくめ、世界中の読書家たちは、読書体験を疑われるという恐怖に、つねに脅かされながら本について語ることになった。なにせ世界中でベストセラーになった本書を、相手が読んでいるかどうかも分かりはしないのだから。そういう意味で、本書によって「読書」そのものの価値が大きく変わってしまった、といっても過言ではない。


 しかも、パリのれっきとした大学教授である著者が、冒頭からいきなり「読んでいない本について授業でコメントすることは多々ある」と告白するのだから驚きだ。暗黙の了解として「学者の世界」ではふつうに行われているらしい。暗黙の了解を、公の場で書いてしまっても大丈夫なのだろうか? と、ここでもヒヤヒヤした。


 ちなみに僕は本書を読む前に、その書評をブログに書いた(興味のある人はこちらからどうぞ)。ちょっとした遊び心のつもりだったのだけれど、これまたスリル満点で、読んでいるあいだ中、ずっと気が気でなかった。

 その読んでいない方の記事で、僕は本書を「速読本(速読をすすめる本)」の究極版であると位置づけた。本を語るのは「他人から一目置かれるため」であって、それをできるだけ効率化するためのノウハウが本書に書かれている、という感じの紹介だ。それから、読まずに語るのは結局のところ付け焼刃にすぎないから、やっぱり本は深くじっくり読むべき、というような反論でまとめた。

 そのため、内容がまったく見当違いだったら恥ずかしいな、という不安にビクビクしながら読んだ。怪我の功名というべきか、おかげで隅々にまで慎重に目を通すことができて、かなり深い読書になったと思う。


 で、僕の予想が当たっていたかというと、もうぜんぜん大外れで、穴があったら入りたい気分。
 ただ、いくつか、当たっていた部分がないわけでもない。

 まず、本書が「速読本である」というヨミは(著者がそう書いているわけではないけれど)まぁまぁ的中していた。

「本を読むことは、本を読まないことと表裏一体である」

と、著者は断言している。

 生きているあいだに世にある全ての本を読むことなんて、不可能だ。
 不可能だとわかってはいるけれど、それでもできるだけ多くの知的財産を所有したい。そのためには「全体の見晴らし」をつかむことが重要で、一冊の本に時間をかけるべきではない、というわけだ。


「全体の見晴らし」というのは本書でたびたび言及されるキーワードなので、もし本書でテストをすることになったら間違いなく出るだろう。念のために復習しておくと、知識を断片ではなく、おおまかな流れのなかに位置づけする、というような意味合いだ。著書によれば、「全体の見晴らし」をたてることが「教養」の本質なのだという。

 この主張自体は、多くの「速読本」で述べられていることと比べても大差はない。
「まえがき」とか「第1章」にふつうに書かれている内容だ。

<なぜ、速読が重要なのか?>
<速読にどんな利点があるのか?>

ということを読者に示し、モチベーションを高めてから、ではどうすればいいのか?という具体的な方法に移行する。これが「速読本」のセオリーだ。

 
 ところが、本書はどれだけ読んでも、次章にあたる具体的な方法が出てこない。「なんとなくこんな感じで」というようなことは書いてあるものの、具体的とはとても言いがたい内容だった。
 
 全編をとおして書かれているのは、速読を動機づけるための言葉ばかりだ。それを延々と繰り返された読者は、パブロフの犬のようにヨダレをだらだら垂らしながら速読に条件反射することになるだろう。まさに精神的な「おあずけ」状態。

 ここらへんは、精神分析家でもある著者の見事な手腕だといえる。そして、実はこの(具体的な方法が書かれていない)点にこそ、本書が他の「速読本」とは一線を画し、高い評価を受けている理由がある。


 著者は決してーー本を読まずに語るための「具体的な方法」を思いつかなかったので適当にごまかそうとしたーーわけではない。そうではなくて「本を読まずに、どのように語るか」というところにこそ本質的な価値がある、と主張している。

 乱暴に言えば、どう語るかは「自分で考えろ」というのが本書の結論だ。

 なぜなら、書評をふくむあらゆる批評は、批評家の「魂の叫び」であり、それこそが最も創造的な活動なのだという。これをオスカー・ワイルド流に言えば、

「批評家にとって芸術作品は、彼自身の新しい作品の示唆にすぎず、それは必ずしもそれが批評するものと明白な類似を有するには及ばない」

ということになる。

 つまり、本を口実にして「自分自身について」語るのが目的だから、本についての知識はめちゃくちゃでも嘘でも一向に構わない、というわけだ。


 著者はこの結論を正当化するために、古今東西のあらゆる物語を引き合いにだして議論をすすめる。フランス人なのに夏目漱石の『吾輩は猫である』にまで触れていたのは驚きだった。しかも、引用する本のほとんどは「ちゃんと読んでいない」のだそうで、彼の教養のすさまじさには、僕も脱帽してしまった。

 面白いのは、この議論にも綱渡りのようなスリルがある、という点だ。

 信じられないことに、著者は「主張」を正当化させるための材料として、自分自身の経験と物語の引用しか、準備をしていない。このあまりに主観的なふたつの材料だけで、結論まで強引に議論をすすめていく。

 これは例えるなら、野球をするのに「ユニフォーム」と「野球ボール」しか持っていかないようなものだ。ボールを飛ばすバットも捕球するグラブもない状態で、どうやって点やアウトをとろうというのか?

 事実も根拠もないのだから、ロジックなんてふつうは成り立つはずがない。これはあまりにも無謀すぎる。
 ……かと思いきや、著者はまんまとそれをやってのける。
 
 なにって、とにかく物語を「語る」のが上手なのだ。抜群に面白いうえに、池上彰に匹敵するくらいわかりやすい。引き合いにだす物語にしても、通読したのに気がつかないような、鋭い視点のオンパレードだ。それで夢中になってページをめくり、あれよあれよと読み進めていくうちに、いつのまにか最後の結論にたどりついてしまった。


 たとえば著者は、バルザックの『幻滅』を引き合いに出しながらーーリュシアンがジャーナリストたちに手ほどきをうけるーーというエピソードを詳細に語っていく。その合間合間に、自分自身の解釈を当てはめる。そうすると、実際に読んだときとは一味も二味もちがう『幻滅』が目の前に広がっていく。

 こんな読み方があるのか、とまるで魔法にかけられているような気分だった。本書の文章で読んでいると当たり前のことにも感じるのだけれど、著者の視点を知るまでは一生、そんな読み方はしなかっただろう。

 まさに「創造」と呼ぶにふさわしい批評だ。

 僕が『幻滅』を読んだときの印象は「祭りあげられて調子にのった若者が哀れにも転落していく」というものだった。そのストーリーの原型を通して、ジャーナリズムの腐敗を描いているんだな、ということが読み取れた。

 もし『幻滅』から、あえて教訓を得ようとするならば、ディズニー映画のピノキオにかなり近いものになる。「誠実であれ」というかなり普遍的な教訓だ。そしておそらく、ふつうに読んだら、十人中九人は同じような感想を持つだろう。


 しかし、本書ではあべこべに、「ジャーナリズムの腐敗」を正当化してしまう。
 物語の最重要部であるリュシアンの転落については、軽く触れる程度ですましておいて、それよりも「本を読むのは愚か者のすることだ」と書かれている部分を強調する。詐術みたいに「読まないで語る」ことが説得されていく。


 教訓とするものが「ふつう」の視点とはまるっきり正反対。

 実は、僕が本書のなかで最も、スリルを感じたのはこの場面だった。もちろん著者は、リュシアンが転落することをちゃんと知っている。読者がそれを見抜くことも、すべて計算にいれていて、だからこそ、あえて無茶な議論を展開した。 

 著者が本当に書きたかったのは、「批評は創造である」という結論でも、そこに至るための議論なんかでもなく、本書に仕掛けられたアイロニーそのものだーーと気がついたとき、びっくりして鳥肌がたった。


 本書は「読み手」によって、どんな解釈をすることもできる。なぜなら著者が、意図的にそう書いているからで、本書は他のありとあらゆる書物のパロディだと言える。そりゃ、ベストセラーになるわけだ。


 著者はきっと平気な顔をして、本書とまったく同じ材料を使いながら『読んだ本について決して語らない方法』を書き上げることもできるだろう。なぜなら、本というのは「幻想」にすぎず、どんな風に「読む」ことも「書く」ことも、できてしまうのだから。 

 いや、これは本に限った話ではない。

 人間は「他人」のことだって、「自分」のことだって、いかようにも語れてしまう。
 なぜなら人格もまた、単なる「幻想」にすぎないのだから。


 そこまで考えて、急いで本書を再読してみると、最初に読んだときとは打って変わって、あらゆる言葉がやけに胸をえぐった。一生かけても読み切れない本の山に溺れるような、なんともいえない虚しさを感じた。


「こんなことなら読むんじゃなかった」
と思うけれど、もう遅い。

 実際に読んだ本は、語ろうが語るまいが、永遠に自分を縛りつけて離さない。もはや本を読むのも、それについて語るのも、それどころか生きていくのも嫌になりそうで、その本のタイトルが『読んでいない本について堂々と語る方法』とは、なんて皮肉だろう!


 とまぁ、深読みすればどこまでも深読みすることができる本なので、ふだんからネガティブな人に、本書はあまりおすすめできない。ましてや「本を読まずに語ってやろう」なんて下心で読むと、今後の読書人生(それはある意味で人生そのもの)を、おびやかされる危険があるので注意してもらいたい。


 ちなみに僕は「生きる意味なんて何でもいい」と思っている単細胞生物なので、本書はそこまで響かなかった。やっぱり読書は至福の時間であり、楽しむのが一番だ。とはいえ、とにかく面白い本だったので、まだ読んでいない人は(リスクがあることを忘れずに)、ぜひ手に取っていろんな読み方を試してみてほしい。

鼻行類

 

 高円寺のヴィレバンでたまたま出会って、思わず衝動買いしてしまった一冊。カラフルで毒々しい装幀にひかれた。

 内容は、ドイツの動物学者が架空生物・鼻行類について解説するというもの。その奇抜な発想が、のちにポケモンなどの日本文化にも大きな影響を与えたとか与えていないとか。ただ対象年齢はかなり高く、モンスターボールもバトルも出てこない代わりに、架空生物たちの生態系について学術的に学ぶことができる。


 なんでも、本書は「生物系三大奇書と呼ばれているらしい。


 三大奇書といえば、『ドグラマグラ』の目もくらむような読書体験が鮮烈に思い出される。
 あの偏執的な勢いには、論理や分かりやすさで太刀打ちできない説得力があった。「霊魂」という、ふだんはリアリティのかけらも感じない妄想が、あの小説のなかでは激痛のように脳みそを刺激する。
「読んだものは必ず気が狂う」なんてキャッチフレーズはともかくとして、筆者はまちがいなく、ある種の異常な精神を患っていたにちがいない。読者は力技でねじふせられてしまい、とてもまともな批評なんかできなくなる。


 今回の『鼻行類』にも、そんな現実の枠におさまらない狂気・妄想がぎっしりと詰まっている。ただ『ドグラマグラ』と違うのは、その異常性を「論理」の分厚いカーテンが包みこんでいるところ。

 その結果、著者の異常性が隠せたかというと、むしろ逆でより誇張されているのが面白い。大真面目な顔をしながらギャグを飛ばすようなものだ。ギャグならいいけれど、極端なほど論理的に語られた嘘には、どこか誇大妄想じみたところがあって、ふつうは受け入れられない。

 ふつうは受け入れられないけれど、本書はもちろん「ふつう」ではない。おふざけなんて甘っちょろいものでもないし、子供っぽい集中力というには徹底しすぎている。まさに本気の創造であって、もし神が人をつくったのなら似たような情熱が注がれたはずだ、と言っても過言ではない。それくらい迫力がある。


 架空の動物たちを、大人が全力で紹介するーーなんて、一歩間違えればホラーになりかねないけれど、細部にまでこだわりぬかれた世界観のおかげで、壮大なSF小説を読んでいるかのようにのめりこめた。


 その世界観については、動物たちのくわしい解説に入る前に<序論>の部分で共有される。
 かなり手がこんでいて、著者はやたらと意見を並べたてるようなミスはおかさない。まるで周知の事実であるかのように、鼻行類の住む「ハイアイアイ群島」が発見された経緯について、淡々と語りはじめるわけだ。


 発端は1941年。日本軍の収容所から、ひとりのスウェーデン兵が脱走する。そのとき、たまたま漂着したのが「ハイアイアイ群島」のなかのハイダダイフィ島だった。この島について、こんなふうに解説がされる。

主として石灰岩と変成粘板岩から成る島で、最高地点は2,230mの双耳峰シャウアヌーンダ山である.島の気候は,中部および東部太平洋諸島の例にもれず,きわめて一様である。その熱帯性植生の植物相調査はまだほとんどなされていないが,広く世界的に分布している諸族とともに,多くの古い型の固有種群(たとえばマツバラン目に近縁のMaiera目やリンボク目に含まれるNelepidodendron属,さらに,キンポウゲ科に近くて原生林を構成するりっぱな樹種をいくつも含むSchultzea目などなど)の存在が示されている.したがって,ハイダダイフィ島の属するハイアイアイ群島は,相当に古い歴史をもっているにちがいない.

 全編をとおしてこんな具合で、叙述のうちどれが本当でどれが嘘かも、だんだんわからなくなってくる。本書はいちおう学術論文の形式になっているのだけれど、引用してくる他の論文には、存在するものとしないものが混同されていたりする。


 ハイアイアイ群島の解説をおえたあと、著者はこの島の「先住民」についても語る。彼らはとても平和的で、武器というものを知らなかった。人口は700人ほど。漂流者がもちこんだ流感によって、数ヶ月で滅びてしまう不幸な小種族だ。

 それから、50年前のドイツ詩人が鼻行類について書いた詩(実際に存在する)について触れ、なぜその詩人がそんなにも以前から鼻行類を知っていたか、さまざまな論文(全部でっちあげたもの)を引用しながら語っていく。 


 ここまできて、ようやく「みなさんご存知」鼻行類について解説をはじめるわけだ。つまり読者を共犯者にしたてたうえで、大きな嘘を展開していく。これはSF小説や冒険小説でも、実際に使われている手法で、新奇な発想を読者にもできるだけ受け入れやすくする効果がある。


 さて、鼻行類の最大の特徴は、なんといっても異質な進化をとげた「鼻」だといえる。
 象のように長いだけでなく、種によっては数が4本も6本も38本もあったり、そこから分泌液をだしたり、花弁のようになっているものもある。彼らの多くは、その鼻をつかって歩行や捕食を行う。そのために手足が退化して、ほとんど機能しない場合もある。


 鼻行類は、全14科189種もいるらしい。
 本書でくわしく取り上げているのはごく一部だけれど、この記事ですべて紹介するわけにはいかない。そこで今回は、僕の独断にもとづいて決定した『ペットにしたくないランキング』のなかから厳選した <ベスト3> を発表しよう。

 ちなみに、実際の動物でいえば、僕はゴキブリとか蛇とかサソリとかを「ペットにしたくないなぁ」と思う。とにかく気持ち悪いし、危険なのは嫌だ。それから、キリンやライオンやペンギンは、好きだけど飼いにくそうなのでランキング上位になる。
 ここから、おおよそのポイントをあげると、

・飼いにくそう
・見ためが好きじゃない
・危険

 という3つが、今回のランキングを決めるときの要点になった。
 ではさっそく、3位から順に紹介していこう。

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『ペットにしたくない鼻行類ランキング』


<第3位・・・ツツハナアルキ>

 まず3位はツツハナアルキだ。
 解説のときわかりにくくなるので、以下では「デカ鼻」と呼ぶことにする。

 大きさはハツカネズミくらい。イラストをみると、けっこう可愛らしい小動物だ。
 鼻はドリル状に進化していて、それを子供のころ選んだ場所に突き刺したまま一生をすごす。だから飼うためには、生まれてまもない赤ちゃんの状態で、家の庭につれてくる必要がある。
 
 この時点ですでに面倒臭いが、問題はそれだけではない。デカ鼻は自分の身を守るために、めちゃくちゃ臭いおならをしながら鼻を軸にして回転する。近づいてくるものは、たとえ飼い主であっても容赦はしない。夜な夜なそんなことをされたら、近所づきあいは最悪になるだろう。
 
 餌を与えるのも簡単ではない。デカ鼻が主食にしているのはヤドカリ。しかし、そのまま手渡ししようとすると、上に書いたような「攻撃」をうけることになる。もちろん、鼻が地面にささっていて、動くことはできないので、自分でヤドカリを捕まえるわけにはいかない。デカ鼻は、トビハナアルキ(以下、チビ鼻)という小さな鼻行類が運んできた餌しか食べられないのだ。

 野生の彼らは、駆け引きをしながら共生している。チビ鼻はすばしっこいけれど歯がない。そのためヤドカリを捕まえると、ぴょんぴょんと鼻で飛び跳ねながら、デカ鼻に獲物をアピールする。そうやって少しずつ警戒をといて、ようやく獲物をわたすことに成功すると、デカ鼻が代わりに自分の母乳を与えてくれる。ただし、獲物が小さかったりすると、デカ鼻は怒り出してチビ鼻をはねとばしてしまう。

 つまり、どうしてもデカ鼻を飼いたいなら、チビ鼻と一緒に、できるだけ大きなヤドカリも用意する必要がある。一方、チビ鼻は人間の赤ちゃんが飲むミルクでも育てられるので、飼うならこちらがおすすめだ。


<第2位・・・ウズムシ コビトハナアルキ>

 つづく第2位は、ウズムシ コビトハナアルキ。
 こいつからは、もはや「ペットを飼う」という楽しみがまったく見出せない。

 上にも書いたように、鼻行類は鼻を進化させたかわりに、手足の機能を失っているものが多い。しかし、このウズムシ コビトハナアルキにいたっては、手足どころか体のほとんどの機能が退化してしまっている。見た目は小さなミミズと区別がつかない。
 もともとは鼻で地面を掘り進めるモグラハナアルキの仲間だったそうだが、鼻が胴体と同一化してしまい、脳すらも見当たらないのだという。

 せっかく鼻行類を飼うのなら、知人に自慢したい、と思うのは当然だろう。でも、いくら珍しいからといって、ウズムシ コビトハナアルキを見せびらかしたりした日には、友達がひとりもいなくなることは間違いない。そもそもふだんは土のなかにいるので、見ること自体が大変ではあるけれど…(体長はわずか2mm)。


<第1位・・・オニハナアルキ>

 さて、栄えある第1位は、オニハナアルキ。
 
 名前に「オニ」ってついているくらい、とにかく恐ろしい肉食獣だ。
 こいつが食べるのは「ナベゾーム」という神秘的な鼻行類だけ。

 ナベゾームは4本の鼻で逆立ちしながら歩行することができる。鼻はそれぞれが海綿体の充血によって相当硬くなっており、それを手足のように交互にくりだしながら歩くわけだ。果実をたべながら平和的に暮らしていて、1mもの大きな体躯と、かなり発達した知能を持っていることから研究者たちのあいだでも人気が高い。
 本書には、彼らが四鼻歩行をしているイラストがのっているけれど、他の鼻行類と比べてもかなり異質な存在といえる。哺乳類というより愛嬌のある宇宙人みたいだ。

 そんな可愛らしいナベゾームを、よりによって食べてしまうのがオニハナアルキ。
 もともと同じところから派生した科ということもあり、見た目はかなりナベゾームに近い。ただ肉食獣のするどい牙をもっているうえに、尻尾の先には毒爪がしこんである。

 オニハナアルキがナベゾームを捕獲している光景は、悲劇としか言いようのないものだ。記載されているイラストをみると、両腕でしっかりとナベゾームをとらえ、尻尾の毒爪をその背中にぶっさしている。つり上がった目はまさに鬼の形相であり、子供がみたらトラウマになるだろう。まさに「飼いにくさ」・「見ための悪さ」・「危険度」どれをとっても、最凶最悪の鼻行類だといえる。

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 さて、どうだっただろうか?
 もしかしたら、こんなランキングでは鼻行類の魅力がひとつも伝わらなかったかもしれない。

 伝わらなかったとしたら、それは完全に僕のせいなので、評価をくだすのは本書を読むまで我慢してほしい。


 『鼻行類』で解説されるものの中には、是が非にでもペットにしたくなるような魅力あふれる動物もたくさんいる。
 たとえば、ダンボ ハナアルキは大きな両耳と尻尾をつかって、まるで映画『ダンボ』のように空を飛び回ることができる。これも例に漏れずイラスト付きで紹介されていて、天真爛漫にトンボを追いかけている姿はとても愛くるしい。まさに女子ウケ必至の鼻行類だ。僕としては、いつかダンボ ハナアルキが大ブームになって、流行語大賞にもノミネートされるのではないかと予想している。


 とにかく、そんな多様な鼻行類について、本書ではかなり詳しい生態系が示されている。この奇書が発表された当時、動物学の世界では鼻行類の話題でもちきりになり、権威と呼ばれるえらい学者さんまでもが便乗した。みんな、鼻行類がまるで「存在」しているかのような反応を示したわけで、それくらい、世界観からディテールまで、著者の抜け目ないリアリズムが貫かれている。

 僕も本書を読んでからは、鼻行類たちを『E.T.』とか『百年の孤独』とか『聖書』とかのキャラクターたちと同じくらいのレベルで「存在」として認識している。
 つまり、すれ違うだけの他人よりは、よっぽど強いリアリティを感じている。


 たとえば『ポケモンGO』のように、AR(拡張現実)もしくはVR(仮想現実)の技術を駆使して、だれか鼻行類たちを現実世界に蘇らせてくれないだろうか。こういう異常性があればあるほど、僕らの平凡な人生は楽しくなるのに、なんて人任せに思ったりする。

「僕らは結局のところ <認識> の世界で生きているのだ」と実感させてくれる読書体験だった。

読んでいない本について堂々と語る方法

本書では、タイトルの通り「読んでいない本について語る方法」が書かれている。

もちろん「読んでいない」といっても色んな状態があるわけだけど、本書では、

1、ぜんぜん読んだことがない
2、流し読みをしただけ
3、人から聞いたことがある
4、読んだことはあるが忘れてしまった

というふうに、自分の持っている情報の段階によって、それぞれの方法論を知ることができる。


友人や同僚と雑談をしていて、ふいに聞いたこともない本のタイトルが話題にあがったときでも、あわてる必要はない。
本書さえ読んでおけば、わずかな情報を手がかりに、あたかも読んだかのように語れてしまうだろう。


ところで、どうしてそんなことをする必要があるのか?


読んでいない本を語ることのメリットはなんだろうか?


そこらへんを明確にするために、まず読んだか読んでないかは別として「本について語る」という行為について考えてみよう。


この記事もふくめて、現代社会には書評があふれている。
なぜ、人は書評をするのか? その動機はおもに次の三つだ。

・純粋に価値のある本をおすすめしたい
・アウトプットすることで記憶に定着するから
・人から賢いと思われたい(一目置かれたい)

ちなみに僕自身は、うえの3つすべてが書評を書く動機になっている。

なかでも「人から一目置かれたい」という下心がなければ、ブログで不特定多数に発信する必要も、今回のようにすでに売れている本を紹介する必要もない。やはり承認欲求はかなり大きい理由なのだと思う。


本を読んでいるというのは、これでなかなかステータスになる。出版業界が危機状態にあるとはいえ、読書家はあいかわらず尊敬されているし、著名人の読書リストが取りざたされることも少なくない。


とくに本をたくさん読んでいる、つまり「多読家である」ということになれば、それだけでインパクト大だ。
一年に10冊の本しか読まないAくんと、一年に100冊の本を読むBくんがいて、他のステータスがほとんど一緒なら、たいていの人はBくんの話をききたいし、Bくんと飲みに行きたいし、Bくんを彼氏にしたいと思うだろう。Aくんは誰からも相手にされず、悔しさのあまり、速読系の本に手をだすことになるかもしれない。

とまぁ、これは暴論が過ぎるとしても、やはり多読神話はいまなお健在で、どんどん新しい速読本が出版されては売れていく。一冊一冊を丁寧に読んでいたのでは孤独のあまり発狂してしまうのだろう。


もちろん、たくさん読むだけでは足りない。
本の内容を面白おかしくアウトプットできてこそ、人気者の階段をかけのぼることができる(と信じられている)。


そういう意味で、本書は究極の速読本ということができるだろう。

なにせ本を読む必要がないのだから、時間のすべてをアウトプットに注げる。読書のいちばんの利点は、スーツや時計や車とちがい、人に実物を見せなくてもいいことだ。たくさん語ることさえできれば「たくさん読んでいる」とみなされる。


では実際に、どんなふうに語るのか?
簡単にいうと「本の内容ではなく自分の知識と経験について」語ればいい。それだけだ。


これは本の話題に限ったことではない。
話し上手な人というのは、まったく知らない(興味がない)話題であっても黙りこくったりせずに、自分がくわしいこと、経験したこととの類似点をさがしだす。そうして最後には、自分の土俵に相手を誘いこんでしまう。他でもない「自分」の話なら、いくらでも語れるというわけだ。


だから「読んでいない本」の話題が出たら、まずはその本について知っている情報を考える。
「どんな人が書いたのか?」
「どんな内容なのか?」
「どういうジャンルなのか?」
それすらわからなければ、タイトルだけでも構わない。

何でもいいから知っている情報をひとつ選んで、「自分が語れること」との類似点をさがしだす。


ここでは仮に『嫌われる勇気』で考えてみよう。


僕は『嫌われる勇気』を読んだことがない。
けれども心理学(哲学?)系の本で、ベストセラーになった、ということくらいは知っている。


この「知っている」をどう活かすかがポイントだ。
たとえば、僕が『嫌われる勇気』について読まずに語るならこんな感じ。

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僕は『嫌われる勇気』に賛同できない。
なぜなら、本書を読んでも根本的な幸福にはいきつくことができないからだ。

とはいえベストセラーになった事実には納得できる。
なぜなら、ベストセラーの条件には、
1、タイトルにインパクトがある。
2、時代の流れに沿っている。
という二つがあって、
『嫌われる勇気』はどちらも兼ね備えている。

1については分かりやすい。
人に好かれるための本が巷にあふれているなか、
「嫌われる」という逆転の発想はユニークだ。
どういうことだろう?とつい気になって手にしてしまう。

それでいて、内容は現代人の理想をうまく汲んでいる。
これが2の要素で、本を客観的に捉えないと見えにくい。
現代は、情報過多により人間関係が希薄になっている。
フロムが『自由からの逃走』で書いているように、
「相対化」と「猜疑心」が原因だといえるだろう。
だから人と関わるよりも内向していく傾向にあり、
『嫌われる勇気』はその傾向とうまくマッチした。

しかし、フロムはそれを「消極的な自由」にすぎず、
孤独をさらに深めていくだけだと看破している。
僕もこの意見に賛同する。
社会との能動的な関わりのなかでしか、
人は自己のアイデンティティを確立することができない。

実際、『嫌われる勇気』がベストセラーになったのも嫌われることへの葛藤が現代人に根深いことの裏返しだ。その原因について追及していかなくては、本当の自由を得ることはできない。

その解決なしに、面倒な人付き合いから逃避したとしても「人嫌いの」社会は依然として人を縛りつけるだろう。

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序盤の「ベストセラーの条件」は思いつきを書いた。適当だけど、そこまで外れてはいないと思う。内容はタイトルから推測しただけなので、できるだけ触れずに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を引き合いにだして誤魔化すことにした。

これが僕にとっての「語れること」で、あえて反対派の意見にしたのは展開が簡単だし短く書けるから。本意ではないので、『嫌われる勇気』ファンの人は怒らないでほしい。


この例文で示したかったのは、読まずに書いた書評が「他の人とはちがう視点を持っている」という点だ。おそらく、どんな書評を読んでも、うえに書いたような「語り方」をしているものはない。そういう意味で、これは完全に僕のオリジナルの書評ということになる。


『読んでいない本について堂々と語る方法』には、こんな一節がある。

「本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ」


なぜ「読んでいないほうがいい」のか?
それは本について語るのが「人から一目置かれる」ためだから。


人から一目置かれるためには、どこかで聞いたことのある感想レベルでは物足りない。本についてコメントしながらも「自分だけの視点」や「自分だけの言葉」をアウトプットすること。これが教養ある人間と思われるために不可欠だ。

しかし、本をくわしく読んでいると、ついつい内容に引っ張られて、自分だけの視点を持てなくなってしまう。<あらすじ>だけしか語らない書評なんて、すでに読んでいる人にとっては何の価値もない。同じものを共有しながらも、自分でも気がつかなかった見識を教えてくれる書評者こそが本物だ。

だからこそ、あえて読まずに語ることで、自分の知識と経験を無理やりにでも引き出すことができる。
「こいつは他のやつとは違うな」と一目置かれるわけだ。


もちろん、本書に書かれていることをそのまま鵜呑みにするのは危険でもある。
そもそも著者のピエール・バイヤールという男は、「フランス文壇の鬼才」と呼ばれている。つまり、めちゃくちゃたくさん本を読んでいる。こういう無責任さは、寺山修司っぽくて僕は好きだけど、間違ってもありのままを信じようとは思わない。


さらに元も子もない話をすれば、本書は前提として「読んだ本について語ることができる」という能力、もしくはそれ以上のスキルが求められる。自分の知識や経験を総動員するので、基礎的な見識がないと不可能だし、そのためにはやはり、たくさんの本を読まなくてはならないだろう。


僕としては本書を、アウトプットではなく、インプットに役立てる方法をおすすめしたい。


どんな本でも、まず読む前にその内容について予測して、できれば自分の言葉で話したり文章にしておく。それから実際に本を読むことで、読解力は飛躍的に伸びる。考える力のバイブル『知的複眼思考法』にも同じようなことが書いてあるけれど、本を読むときに「自分なりの考え」と比較することは、著者と同じ視点にたつうえで効果的だ。

自分の予想とどうちがったか、どこが同じだったか、を照らし合わせることで、知らなかった知識や、気がつかなかった見識を知ることができる。それがそのまま、その読書の意義になる。記憶に定着しやすいというメリットも捨てがたい。


かくいう僕も、まだ本書を読んでいない。タイトル・裏表紙・目次から内容を予想して、『読んでいない本について堂々と語る方法』を、ひとまず読まずに語ってみた。これから実際に読んでみて、自分の予想とどう違ったか、答えあわせをするのが楽しみだ。


こうやって一冊に時間をかけることを僕は重視する。続けていけば大きな財産になるだろう。それになにより、読書は楽しい趣味なのだから、効率をもとめてはもったいない。

時間は実在するか

考えれば考えるほどわからなくなるものがある。


たとえば「幸せってなに?」とか
「宇宙人っているのかな?」とか
「なんでここから毛が生えるんだろう?」とか。


というより、ほとんどの事柄は、どんな些細なことでも考えれば考えるほど、どんどんわからなくなってしまう。


「わからない」というのはストレスだ。
胃は痛くなるし、飲酒の量は増えるし、最終的にはハゲてしまうことだってある。


だから僕らはふだん、わからなくなる手前で、仕事や恋愛や宗教なんかを言い訳にして考えるのをやめてしまう。
そっちの方が体にいいし、生きるうえでも楽ちんだ。


そのうえで、「考えるのが趣味」というもの好きが考えた意見を、まるで自分の意見のように思いこんで、後輩や子供にドヤ顔で語ったりする。ときには他人が考えた意見をつかって、人と口論することだってある。


実際、自分が考えた意見だけで会話をする人なんて世の中には一人もいないし、ほとんどの人は(僕もふくめて)その意見が正しいかどうかすら考えないで、なんとなく、そうだと信じこんでいる。


たとえば「地球はまるい」という意見だって、本当かどうか、実物を見た人なんてほとんどいないわけで、教科書に載っていた言葉とか写真とかをそのまま信じこんでいるだけだ。


それでいて、「地球は四角いんだよ」と誰かが自分なりに考えて口にしようものなら、地球が四角い可能性については考えもしないで否定するだろう。


自分一人で考えた意見というのは、まぁ本当のところ、大体において間違っていることがほとんどだから、そうやって他の人から否定されると、もう考えるのが嫌になってしまう。とりあえずパーっと遊んで忘れてしまおう、とこれもまた考えなくなる悪循環のひとつといえる。


誰が悪い、ということではなく、とにかく世の中というのは、考えることが難しいみたいだ。


だからこそ、正しい(と相手を納得させられる)意見を考えることができる人は、もうそれだけで尊敬される仕組みになっている。偉人と呼ばれる人はみな、自分が考えた意見というものを持っていた。しかも、その意見を周りの人間にも認めさせることができた。


明王エジソンとか、アップル社のスティーブジョブスなんかだとわかりやすい。
彼らは自分の考えたことを、実際に形にした。


暗闇を明るく照らすことのできる電球とか、さまざまな機能を搭載した携帯電話とか、そういうものは目で見て、手で触れることができるので、無条件に人を感動させる。五感で認識できるものを人間は疑うことなんてできない。形にした時点で彼らの成功は決定的だった。


そういう意味ではピカソも、ベートーヴェンも、キューブリックも、芸術作品(もしくは娯楽)を形にすることで、自分の考えたことを人に認めさせた。
「この形、この音律が美しい」とか「芸術とはこういうものだ」というのが彼らの意見で、それをとにかく形にしてしまえれば話は簡単だ。あとは好きか嫌いか、優れているかいないか、というような評価を得られさえすればいい。もちろん、そこに正解はないけれど、芸術である限り、間違っていても構わない。


しかし、中には、形にできないものを考えた偉人もいる。


その多くは哲学者だ。
カントとかニーチェという名前を聞いても、彼らの意見を五感でイメージすることはできない。


哲学者は言語(そして数式)を使って、自らの意見を組み立てていく。絵や音楽を見て、なんかいいなぁ、と感じるのとはまったくちがう。作者の考えた道順を、受け手も同じようにたどらなくてはならない。だからめちゃくちゃ分かりにくい。
哲学が女の子たちのあいだに流行らないのもそのせいだ。


それでも哲学者が尊敬されているのは、考えることを放棄していない人たちが世の中には少数いるからで、実際に偉人の考えた道筋を自分でもたどったからこそ、得られる感動というものもあるらしい。


それを難しいから、という理由で無視するのは少しもったいなく思える。


そもそも「まったく考えない」という態度は、かなり危険でもある。まったく知らない人に勧められた料理を、疑いもせずに食べてしまうようなものだ。驚くことに、僕らは日常の中でふつうにそういうことをやっていて、もし料理に毒が入っていたら大惨事だ、とすら、考えたりはしない。


少し前にフェイクニュースが話題になったけど、似たようなことが政治や、金、医療の問題なんかでも、起こる可能性は十分にある。体と同じように、思考に毒が回ることが、死に直結しないという保証はない。


そろそろ「考える」ということを、少しずつでもはじめてた方がいいのでは?と思いたって、そのために僕はふだん読まない哲学書に手を出してみた。上にも書いたように、哲学は人がつくった道筋をたどりながら自分でも一緒に考えることができる。いわば思考のリハビリみたいなもの。そうやって考える筋力をつけておけば、いざというとき、毒入り料理を避けることもできるかもしれない。


ということで今回読んだのが、『時間は実在するか』という本。



マクタガードの『時間の非実在性』という論文をベースに、著者が考えた時間の実在性について示している。


読む前は「実在」ってそもそもなんだ?というレベルだったので調べてみると、経験や認識とはちがって「客観的な存在」のことらしい。

たとえば「空気の実在」というとき、それは僕らが呼吸をするときに鼻や口を通っていく感覚のことではない。
そうではなくて、空気そのもの、その実体のことで、僕らの五感とは完全に切り離しても「ある」と言えるなら、空気は実在する、ということができる。


つまり『時間は実在するか』?
という問いに答えるには、僕らが感じている時間ではなく、時間そのものが本当に存在しているのかどうか、ということを突きつめていくことになる。


そもそも、僕らが時間について語れることなんて、どれくらいあるだろう?


視覚としての時間は、時計の針が進んでいくことで認識することができるけれど、それすらも時間そのものの形を見ているわけではない。もちろん時間には匂いも味もないし、ましてや触ることなんて絶対にできない。


それでも経験的には、楽しいとき時間ははやく進み、つまらないとき時間は遅く進む(ように感じる)ということくらいなら言える。


しかし、実在とは「そう感じる」という経験から独立したもののことなので、どう感じていようが、そんなことは関係ない。「感じること=存在すること」なら、ドラッグによる幻覚だって存在することになってしまう。


「みんながそう感じているんだから、存在するに決まってる」という意見も無意味だ。誰もが信じていた事実が覆されてしまう、なんてことは過去に何度もあった。地球が宇宙の中心である、と信じられていた時代もあるくらいだし、みんながそう感じている、というのは意外とあてにならない。


では時間の存在は、どう証明するのか?というと、マクタガードは堂々と「証明することはできない」と開き直り、あべこべに「時間は実在しない」と言い切ってしまった。


なぜなら、時間を証明するためには、時間があることを前提にしなくてはならず、その前提の時間があることを証明するためには、時間があることを前提にしなければならない……という無限のループがつづいていってしまうからだという。


とても分かりにくいので、プラモデルで考えてみよう。(ガンプラでもミニ四駆でもかまわない)


ーーあなたは世界にひとつしかないプラモデルをつくることになった。
世界にひとつだから、そのプラモデルが完成したときどんな形をしているのか、あなたはまったく知らない。


それでも組立説明書があれば、図解を見ながらそこに振られている番号の通りに部品を組み合わせることで、最後にはプラモデルを完成させることができるだろう。


しかし、もしそのプラモデルが「順番」だったらどうだろうか?


あなたは世界にまだ存在しない「順番」というものをつくることになった。


もちろん、あなたは「順番」の完成図を知らない。しかも、組立説明書にはいろいろな図解がばらばらに並んでいるのだが、困ったことに番号がふられていない。なぜなら「順番」というものが存在していないので、あなたが「順番」を完成させないことには、組立説明書に番号をふることもできない。しかし、組立説明書に番号がふられていないと、あなたはいつまでたっても、「順番」を完成させることができないーー。


とまぁ、とても単純にして、無理やり喩えると大体こういう感じの矛盾がおこってしまうらしく、「時間の実在」はこの無限後退のせいで、いつまでも証明できないのだという。


だから時間は、僕らが「ある」と感じているだけで、実際には存在していないかもしれない。


目眩がするような結論だ。
にわかには信じられない。


もしそうだとしたら、過去から現在、そして未来へと流れる時間はすべて、僕らの思いこみということになる。ドラッグによる幻想のようなものということになる。


それは「この世界」そのものを、まったく別物に変えてしまう可能性をはらんでいる。


たとえば、「この世界」は、つい1秒前につくられたもので、僕らは「生きてきた」という記憶をうえつけられ、その情報と整合するような世界を用意されて、そんなこととはつゆとも知らずに、怒ったり、泣いたり、笑ったりしているかもしれない。まるで映画『マトリックス』のように。


恐ろしいのは「そんなことはない」と言い切ることが誰にもできないことだ。
なぜなら、時間は実在しないのだから……。


しかし、『時間は実在するか』の著者は、このマクタガードの論文を詳しく正確に(そして分かりづらく)解説したあと、「でも、時間は実在しない、とも証明できてないじゃん!」とツッコミをいれる。


実は、マクタガードの証明は「時間を否定するために時間を前提にしている」という、先ほどとまったく同じ矛盾を抱えこんでいるらしい。


つまり、時間は実在しない、ということを証明するには時間を前提としなくてはならず、その前提の時間すら実在しない、ということを証明するためにもまず時間を前提としなければならない……と無限に続いていく。


だから結局、マクタガードの証明は間違いだった、と著者は反論する。


「なんだ、そうだったのか」
ホッと胸をなでおろしたのもつかの間、そこから著者が考える「もうひとつの時間論」が語られていくのだが、これがマクタガードの論文に負けず劣らず難解で、正直、わけがわからない。

ただ、少なくとも「時間が実在する」と言い切ることはやっぱりできない、というより「実在しない」可能性の方が高いっぽい。


こうやって説明するだけでも頭がおかしくなりそうな本で、強制的に、考えるという地獄にひきづりこまれたまま、僕は今でも抜け出せずにいる。

本書ででてきた『A系列』とか『B系列』とか『無関係な過去』とかの言葉が、ぐるぐると頭を巡って、夜も眠れやしない。イメージとしては、トイレの水が止まらずに流れている渦中で、永遠と阿鼻叫喚を続けているウ○コ状態だ。


「思考のリハビリ」なんて言っていた自分の青二才ぶりが恥ずかしい。一冊を通して分かったのは「哲学こそが、まさに毒入り料理である」という絶望的な結末。
それでいて、この毒入り料理にはまってしまって、もうやみつきで次の料理を物色したりしている。


本の「あとがき」で、著者はマクタガードの『時間の非実在性』をはじめて読んだときのことを、こう回想している。

何か重要なことを論じているようでもあり、単なる屁理屈を言っているようでもあり、しかも、その議論に対するこちら側の態度を完全には決定できない歯がゆさのようなものが、いつも残っていた。


この『歯がゆさのようなもの』を忘れてしまうのか、それとも向き合いつづけるか、これが考え続けるという姿勢を決めるようだ。


著者は「わからない」ということに向き合いつづけた。


「わからない」ということは、もちろんストレスではあるけれど、それだけ得られることも多いようだ。
少なくとも、本と向き合って考えているあいだは楽しいし、時間を忘れて(?)夢中になれた。


「毒をもって毒を制す」という言葉もあるくらいだし、考えるための読書をこれからも続けていきたいと思う。

知的複眼思考法

 偉大なアルゼンチン作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説に『エル・アレフ』という短編がある。

 作家である主人公は、幼馴染に「エル・アレフが家の地下室にある」と聞かされる。
 半信半疑で地下室まで降りていき、階段の19段目をみつめる。するとエル・アレフが見えた。

 エル・アレフには「地上のすべての場所、それもあらゆる角度から見た場所が混乱することなく存在している」という。

 その光景を描写するために、ボルヘスはまずその印象を語らせる。
心楽しい、あるいはぞっとするほど恐ろしい何百万という行為を眼にした。しかし、何よりも驚いたのは、すべてが重なり合うことも、透明になることもなくひとつの点に収まっていることであった


 小説でそれを書くことは、ボルヘスのような天才であっても簡単ではなかっただろう。「言語は継起的なものなので、私がここに書き写すものもそうならざるをえない」と、言語の限界についての前置きをしたあと、宇宙のイメージを精巧な版画のように重ね合わせていく。


 つぎつぎと入れ替わり立ちかわる描写は、文学史にのこる最高の場面なので、ぜひ小説を読んで味わってほしい。「記憶の人」と呼ばれるボルヘスは、無限の宇宙から「平凡さ」や「神秘性」や「美と醜」を取り出して並べ替えることで、ひとつの音楽を奏でるように彼の宇宙を差し出してくれる。しかもその宇宙には、読者である僕やあなたまで含まれているから驚きだ。


 さて、この物語は皮肉な結果によって、幕を閉じることになる。


 作家であった主人公は、結局のところ無限の宇宙からなにも得ることができなかった。一方、主人公がひそかに馬鹿にしていた幼馴染は、エル・アレフから得た着想をもとに詩を発表し、文壇からの賞賛をうけることになる。


 あえて、この小説を教訓として考えたとき、登場人物の二人はなにが違ったのだろうか?


 エル・アレフは「無限の宇宙」を見ることができる。そういう意味で、二人の知った情報はまったく同じものだった。
 しかし、それに対する態度はちがったことになる。
 主人公はやがて忘れていき、幼馴染は詩にすることで自分のものとして記録した。


 世の中は、たくさんの素晴らしいものであふれている。
 ただ、素晴らしいものに触れても、その反応は人それぞれに違う。

「この本を読んでから人生が変わった」と偉人がすすめる本を読んでも、感動はするのだけど、人生が変わるほどのことではなかったーーという経験は僕にも少なからずある。


 ボルヘスは、古今東西のありとあらゆる物語を知っていて、それを自らの作品に活かすことで世界中の文学ファンから賞賛をうけた。しかし、たとえボルヘスと同じくらいの博識であったとしても、それだけでボルヘスのような文章が書けるわけではない。むしろ、知識と知識のあいだに横たわる空白をどう埋めるか、というところに、作品の魅力があるわけだ。


 さて、話はすこし変わるけれども、日本の教育は「知識の丸暗記」を目的にしているので創造性が育たないーーという議論をよく聞く。つまり、どれだけたくさんの知識を持っているか、ということが知識をどう活かすかよりも重視されてきた。

 その結果、「勉強不足症候群」と呼ばれる若者が大量生産されてきたという。


『知的複眼思考法』という本には、その症状についてこんなふうに書いてある。

議論をしていてわからないことがあると、「よく勉強していないのでわかりません」と弁解する学生がいます。
「十分な知識がないのでわからない」「もっと本を読めば、わかるようになるだろう」。つまり、勉強量が足りないせいで、問題が解けないのだと思い込んでしまう(中略)、本当のところは、知識がまったくないというより、知識をうまく使いこなせないのですが



 この本の著者は、苅谷剛彦という東大の教授。そして、ここで書かれている「学生」とは東大生のことだという。
 受験エリートである彼らは、「世界のことすべてを説明してくれる大正解がある」という信仰を持っていて、それを見つけることが「学び」だと思いこんでいるらしい。


 本書には「自分の頭で考える力」をつける方法が書かれている。
 しかし、本題にはいるまえに思考停止状態の「高学歴な学生たち」について、上記のようなさまざまな例を紹介しながら、親のカタキのように批判する。文章自体は「です・ます調」なので気づきにくいけれど、その批判は徹底的で、しかも根拠までしっかりと示されるので反論の余地がない。

 優しい笑顔のまま学生たちをタコ殴りにしているようなものだ。


 正直、この辛辣な批評を読んで、学歴コンプレックスの僕は「そうだそうだ!」と知りもしないのに賛同していた。
 いま思うと恥ずかしいけれど、受験エリートの東大生たちが槍玉にあげられているのが愉快だった。


 でも、ふと思い返してみると、僕にだって「思考停止状態」に心当たりがある。「知識がないから」と新しいことをはじめるのに躊躇したり、興味はあるけど難しいそうな本になかなか手をつけられなかったり、心地よい言葉に踊らされて時間や金を浪費したこともある。


 そのことに気づいてからは改心して、「これは僕に対する批評だ」と思いながら正座して本書にのぞんだ

 そして、激しく落ちこんだ。


 僕には「無限の宇宙」を解釈して人を感動させることもできなければ、知識と知識の空白をうめて魅力的な文章を書くこともできない。見識者のふりをした情報過剰社会のゴミクズだ、情弱文学青年だ、と本気で思った。


 まぁ、そんなこんなで散々な思いをしたけれど、貴重な体験だった。


 ふつう、人は自分のことを過大評価する傾向にある。『エル・アレフ』の登場人物をみれば「自分は賞賛をうけた幼馴染側の人間だ」と考える人は多い。僕もそうだった。それでいて、現にこの宇宙に生きているのに、なにも残せてはいない。やろうと思えば、やれることはたくさんあるのに、そのことに気がつきもしない。


 それでいて、自分はひとかどの教養人だと本気で信じている(これも僕のことです)。


「自分を客観的に評価しろ」と言われても、簡単ではない。


 たとえば、歴史という学問では、遠い過去になってみてはじめて「時代の空気」を言語化できるようになる。
 くわしい知識がなくても、大日本帝国による戦争がどれだけ無謀だったか、ということを想像するのは難しくない。むしろ目に見えるかのように原因と結果が関わり合っていて、当時の人間がなぜそれに気がつかなかったか、不思議に思えるくらいだ。
 それでいて歴史評論家であっても、現代を語ることは困難で、未来がどんな姿をしているのか予測がつかないという。


 客観視するには「今の状況」から距離をおき、俯瞰しながら現状をたしかめる必要がある。
 地図を見るように、全体の構造を見わたすことができれば、どのように歩くべきか理解できるわけだ。


 地図を見るときに、何より重要なのは「現在地」が明確であることだ。
 はじめていくデパートなんかで案内図を見たとき、現在地が示されていなくて戸惑うことがある。目的地がわかっても、自分の居場所がわからなくては、たどるべきルートを探すことなんてできない。


 そういう目的地だけしか書かれていない本が、この世の中にはあふれている。

「論理的な思考が大事だ。それを身につけるためには、こういう方法がある」
「健康になりたければ、これをやめなさい」
「金持ちになるためには、こうしなさい」

 といった類のキーワードには、心を高揚させる効果があるけれど、万人がそれによって目的を果たせるわけではない。それどころか耳障りのいい言葉を並べることで、読者の現在地を偽って伝える本まである。本を読んで気持ち良くなることが目的なら構わないけれど、これではサービス業となにも変わらない。漫画や映画のほうがお手軽だ。


 本を読んで何かを得たいのなら、内容の信ぴょう性を査定したり、自分自身に応用していく工夫をしたり、という考察する力をつけなくてはならない。考察力のない読書はただのオナニーだ。


『知的複眼思考法』で紹介されるのは、この「考察する力」であり、まず読者の現在地を確認させるところからはじまる。どれだけなぐさめられても、反対に落ちこまされても、僕の現在地にはまったく変化がない。しかし、このままではダメだと思うことはできた。そもそも(当たり前だけど)著者のねらいは、優しい笑顔で読者をタコ殴りにすることではない。


 この本は「優れた案内図」の役割を果たしている。目的に向かう途中でときどき立ち止まっては、「現在地」と「たどるべきルート」を照らし合わせることができる。もちろん歩いていくのは自分の足でだけれど、だからこそ筋力がつく。


 そのルートはインプットからアウトプットまで、多肢にわたっている。すべて紹介することはできないので、印象的だったトレーニング方法をひとつだけ紹介してみよう。
 詰め将棋ならぬ「詰め読書」という読書方法だ。


 やり方は簡単。
 どんな文章でもいいので、最初の部分を読んだら、次を読む前に何が書かれているかを考える。

・著者がもっとも伝えたいことは何か?
・どんな議論を展開するか?
・その根拠として、どんな材料を提供するか?

 ということを自分なりに考えて事前にメモしておく。それから実際に文章を読んで、自分の考えとどう違ったのか、なぜ違ったのかを考える。つまり著者の考えかたや知識を、自分と比較するわけだ。


 僕はこれを書評でやってみた。読んだことのある本についてプロが書いた書評をえらび、一段落だけ読んでから、自分ならどう展開させるかを考える。答えあわせをしてみると、僕とはまったく違う議論を展開をさせていたり、同じような展開であっても利用する材料の種類や数がちがっていたりする。


 ふつうに読むのと比べて、著者の思考の「道筋」が手に取るように理解できるし、なにより自分に不足しているのが「知識」なのか「考えかた」なのか、という部分も明確に知ることができる。「勉強不足症候群」の改善にもってこいだ。


 ちなみに、著者の苅谷剛彦は「全国の大学生が選んだ日本のベストティーチャー」に選ばれている。最高の先生といえる人物に、僕はいまだに出会ったことがないけれど、そういう本に出会う機会はたびたびあった。最後に、最高の先生と呼べるほどの本を探すとき、参考になる言葉があるので引用しておこう。

平凡な教師はただしゃべる。
よい教師は説明する。
優れた教師は自らやってみせる。
偉大な教師は心に火をつける。

        ーーアーサーウィリアムワード

理科系の作文術

あなたは文系だろうか、それとも理系だろうか?


この問いには、本来の意味(専攻する分野)の他に「性格を占う」というニュアンスが混じっている。

たとえば「リケジョ」がブームになったとき、さまざまな物語の登場人物として描かれたのは「理性的だが融通の利かない女性像」だった。2015年の1月〜3月に放送された『デート』には、そんな典型的な「リケジョ」と、高等遊民を自称する「文系ニート」の恋が描かれている。序盤で、リケジョは文系ニートを「社会のバグ」と軽蔑する。一方、文系ニートは「きみには心がない」とリケジョを非難する。文系・理系のステレオタイプ(やや誇張気味)がわかりやすく提示されていて面白い。


ドラマでは、男女あべこべにしたことでユニークさが出ているが、そもそも「リケジョ」という言葉自体が「女性なのに理系だ」という特殊さを表していることからも、一般的に、男性には理系が多く、女性には文系が多い、という印象があるようだ。


文系と理系のイメージは、おおよそ次のようになる。

 文系:感受性がつよく繊細で、人の気持ちを察する能力にすぐれている。
 理系:論理性がつよく理性的で、ひとつのことに没頭する集中力がある。

さらに続けると、

 文系:数学に弱くお人好しなので、人に騙されやすい。
 理系:頑固で視野がせまいので、コミュニケーション能力が低い。

と散々な言われように、そろそろ反論したくなってきたなら、あなたは理系人間かもしれない。僕なんかはこう言われると「うわ、当たってる」とあまり深く考えずに同調するので、文系人間に近いのだと思う。


そもそも学問を文系・理系にわけるのは日本くらいのものらしい。
なにやら血液型占いのようなうさん臭さを感じる分け方ではある。
 
ただ、血液型については「△型の性格は〜」という解説を子供のころから聞いているので、暗示にかかって、だんだん言われた通りの性格に近づくのだという。これは心理学の「ピグマリオン効果」でも説明することもできるので、かなり有益な説だったりする。

だとしたら、文系・理系の性格占いだって、学生時代からの暗示によってステレオタイプに近づいている可能性はある。一概に、迷信だと切り捨てることもできない。


さて、どうしてそんなことを書いたかというと『理科系の作文技術』という本を読んだからだった。


タイトルの通り「理系の学生が文章を書くための指南書」だ。
ところが、聞くところによると、これが文系の文章にも大いに役立つという。

で、実際に読んでみると、たしかに役に立った。
正直、真新しいことは何もないのだけど、他の「文章術」関係の本に書いてあることは、一通り抑えてある。なによりその書きかたが「納得ができる」ものなので、文章術を書く機会がある人なら例外なく読んだほうがいい。


「納得ができる」と書いた。
どういうことかというと、根拠が(正確に)示されている、ということだ。


ふつう世に出回っている「文章術」の本は、ほとんどの場合、文系人間のために書かれている。
これは需要を考えれば当たり前のことだ。


ところで、文系人間というのは、上にも書いたようにとにかく騙されやすい。
というより、自らすすんで騙されることに慣れている。


文系の文章に欠かせない能力は「上手な嘘」をつくことだ。
小説でも詩でもエッセイでも、事実をそのまま書いたのでは面白くない。そんなものは新聞のニュースとなにも変わらない。たとえルポタージュであっても、そこには読み物としての脚色や、レトリックが必ずふくまれている。読者の心理を予想して、展開を盛り上げたり、クライマックスには心に刺さる文章を準備しておく。


この「上手な嘘」はもちろん、バレないための嘘ではない。
そうではなくて、嘘だとわかっていても信じてしまう、という類のものだ。


そういう意味で、文系の文章は、「読者の心理をコントロールすることが目的」だといえる。
読者側でも、うまくコントロールしてくれた方がのめりこめる。面白さも感動も大きくなるので、自らすすんで書き手の世界観に没頭しようとする。そっちの方が読書体験がより楽しくなる。


読むときに「いや、実際はちがうんじゃないか?」という問いかけは禁物だ。そんなことをしたら、もともとが嘘であるだけに、何もかもがうさん臭く思えてしまう。とても感動どころではないだろう。これはミステリーであっても同じで、「謎とき」の論理性にどれだけ疑いを持ったとしても、その前提となっている世界観や設定の嘘は、あるていど認めざるをえない。


つまり文系の文章では、論理よりも「もっともらしさ」や「リアリティ」が求められる。


一方、理系の文章には、嘘が許されない。
事実を正確に書いていくことで、読者が知らなかった情報を伝えるのが目的になる。


だから読者も、書かれていることが本当に事実かどうか、その前提から疑ってかからなくてはならない。さまざまな根拠を示していき、書き手と作者が同じものを事実として認めることができたとき、はじめてその文章は成功したと言える。


『理科系の作文術』は、そんな面倒くさい論理的な読者に向けて書かれたものなので、伝達される情報には、かならず根拠が書かれている。「なぜ、そうしたほうがいいのか?」という疑問が、すぐに解消される。いままで僕が無意識にやっていた書き方を「どうしてか?」と論理的に説明してもらえたので、より基礎が固まってスッキリした。


他の「文章術」関連の本を読んでいると、根拠が十分に示されていないことが多い。疑問やツッコミを入れようと思えば、いくらでもボロがでる。「へーそうなんだ」と受け入れる文系読者を想定しているからだろうか。それに著者自身もほとんど文系だから、理系のより厳格な論理性とはあまりなじみがないようだ。


文系と理系の文章はちがう、と書いたばかりだけれど、共通する部分が少なからずあるのも確かだ。


「上手な嘘」をつくためには、素材の組み合わせかたに論理が必要になる。
先ほどの例で言うと、事実として示した情報のあとに根拠を書くことで、リアリティをより高めることができる。ほとんどのミステリーが殺人犯の「動機」を描くのも同じ理由で、読者は殺人犯が実際に生きているかのように錯覚してしまう。


このように本書に書かれている「理科系の作文術」を、自分の表現したい分野に応用することができれば、リアリティは大いに高められる。人間心理にもとづいているので、ジャンルは関係ない。


他にも、すぐに利用できる方法を本書のなかから紹介してみよう。
「意見」を認めさせるためにはーー「自分の意見の根拠になっている事実だけを具体的に、正確に記述し、あとは読者自身の考察にまかせるのがいちばん強い主張法になる」という一文がある。


漫画で考えてみよう。
主人公の強さを表現するとき、文字で「彼はめちゃくちゃ強い」と書いても、読者はピンとこない。その代わりに、トラックを放り投げたり、地球を素手でまっぷたつにしたり、最強と言われている敵を倒したり、というシーンを重ねていく。それだけで読者は「あ、こいつ強いんだな」と納得する。


これは恋愛に応用することもできる。
「自分は誠実だ」ということをアピールしたいなら、言葉にするよりも行動に表すことが有効になる。

人間は他人に教えられたことよりも、「こうかもしれない」と自分で考えた(と思いこんだ)ことを信じるし、重要だと考える。だから、できるだけ事実(に見えるもの)をもりこんで、主張はひかえた方がいい。それどころか、まったく主張を言わなくても構わない。


実際、この本から学べることも、ほとんどはそういう発見だったりする。作者にコントロールされるまま一度目を読み通したあと、二度目は作者の意図を探りながら読むのも面白いかもしれない。そういう意味で、本書は心理学を学ぶときの楽しさを体験することもできる。


文系・理系・肉食系を問わず、全人類におすすめの良書だ。